10versLible

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映画、アニメ、漫画、音楽などの雑記。ファーストインプレッションを大切に。

過去50記事の中で特に読まれたエントリーを振り返る

先日、ブログの記事の数が50に達しました。

インプットとアウトプットの速度と質の向上をしたいという想いから始まり細々と続けてきたのですが、何事も継続することが大切だと感じています。

 

記事の数以上に下書きに留めて形にしきれなかった文章が多いというのが正直なところなのですが、続けることで少しずつ質も高められる実感もありますからね。

 

その中でも書いた記事が読まれる数が増えてくると喜びもあって。これまで一度でも読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。

 

投稿記事50件とキリも良いので、今回はそうした記事の中でも特に多く読まれたエントリーを振り返っていこうかと思います。

 

まだ見ていない内容や気になるエントリーがあったらぜひ反応してもらえると嬉しいです。

 

 

kuh-10.hatenablog.com

BLEACH』はどのキャラクターも本当に深みがあって生き生きとしているのが良いんですけど、井上織姫の存在は作中での直接的な描写以上に大きいと思っていて。

井上織姫BLEACHという作品、そして黒崎一護という主人公にとっていかに大切なキャラクターであるかを書きました。

 

この記事は一時期「井上織姫」の検索ワードでWikipediaの次に表示されていたくらい急上昇しまして、自然検索からの流入数がかなり伸びました。

あとは7月7日の七夕にアクセスが増えたので、「織姫」に引っかかったのかなと察するのですが、そういった世間の興味を意図せず感じられたことも面白かったです。

記事の内容としては織姫が太陽のような存在であると記しているので、夜空や天の川とは真逆になってしまいますけどね…。

 

 

kuh-10.hatenablog.com

シンエヴァの公開前に、僕にとって大切なキャラクターであるアスカとの向き合い方について書きました。

作品の特性上、物語やキャラクターに対する感想や考察はネットの至るところに落ちていて、そしてそれらの記事数以上に多くの人々が他人の思考に触れようとしていると思います。

本作の感想を探すと検索結果の1ページ目にいることが長かったので、検索から記事に飛んでもらった数が圧倒的でした。

 

 

kuh-10.hatenablog.com

公開後に賛否両論の声が見られた『トイ・ストーリー4』。世間は本作をどう解釈しているのだろう…そんな人々に読んでいただいたのだと思います。

 

ここ数年のディズニーやピクサーの作品の方向性が色濃く反映された続編でしたね。

ポリコレの意識が見て取れるわけですけど、それを『トイ・ストーリー』でやるべきだったのかという点。これは賛否あって然るべきだと思います。

しかし一方で、これまでのシリーズを全否定するほどなのか…というと個人的には疑問にも思えていて、書き殴った内容ですね。

 

 

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こちらも世間を騒がせた映画『ジョーカー』の感想記事。人によって解釈が分かれがちな作品群は、このネットの時代において検索される数が多いのは必然なのでしょうね。

DCの名を冠してはいるものの、過去作品でジョーカーやバットマンに触れたことのない層でも十分に満足できる1作なのではないでしょうか。

 

 

kuh-10.hatenablog.com

僕の本作への入口としてはマンガ大賞受賞でしたが、話題作ということで記事更新後は安定してPVが伸び続けました。

また、10月からテレビアニメの放送も始まったことも後押しとなったようです。

漫画ならではのコマの魅せ方に唸る1作。多くの方に共感していただいていれば嬉しいです。

 

 

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これまで観たアニメ数百作品の中でも特に好きな作品のひとつである『SHIROBAKO』の劇場版。テレビシリーズ放送時には学生だった僕も今となっては社会人になっていることもあり、主人公・宮森あおいの葛藤には共感できることも多々あって感情をガシガシと揺さぶられました。

 

クリエイターの人達ってそれぞれの想いをそのまま世に放つ方々だと思うので、キャラクターの苦悩や葛藤をアニメ制作、そして作り上げたアニメ本体に投影させる本作の構造が大好きなんです。

 

 

kuh-10.hatenablog.com

2020年公開映画の個人的ランキングをまとめた本エントリー。昨年は本当に豊作でした。

徐々に規制が緩和されて来ているとはいえ、まだまだステイホームの意識は緩められない昨今。

やはり家での映画鑑賞を楽しむ層も増えているのでしょう、昨年公開の映画ランキングを調べる方々が多いことが本エントリーへの遷移しているようです。

 

 

 

全体を通して感じたのは、やはり自然検索での上位表示は強いということでした。

こんな末端のブログでさえ一定数検索されているワードで上位に来ていれば数字に結び付くのだと実感しますね。

 

それから、やはりツイッターからの流入も数字に繋がります。ブログの更新をあえてツイッターに連携しない場合にアクセス数にどう影響するのかというのもいくつかのエントリーで試してみましたが、連携したツイートのリツイート数やいいねが多いと、ツイッターに連携したエントリーとそうではないものでは数字もそこそこ差が出ました。

 

リツイートはもちろんのこと、今のツイッターの仕様としていいねされたツイートはその人のフォロワーのタイムラインにも表示されるので、導線がかなり増えるんですよね。

現代のネット社会でのPV向上においては、導線の多さは想像以上に大切。

 

世間の流行や、記事で触れた作品の媒体展開などによってPVが上下するのも見ていて面白かったです。

 

書くことを定期的に行うことで、作品に触れる度に自然とインプットを意識するようになりました。

記事を更新すればその分読んでもらえる機会は増えるわけですから、下書きで眠ったまま日の目を見ない記事の割合を減らすことを目標にしたいと思います。

今後ともどうぞよしなに。

 

 

 

『アオのハコ』で男子高校生の気持ちを取り戻したアラサーの末路

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(C)三浦糀/集英社

 

先日、ツイッターを眺めていたらマンガの1コマらしい画像が流れてきたんですよ。ショートカットで目のぱっちりした、それはそれは可愛らしい女の子がアップになった画像が。

 

なんか異様に可愛くて、やけに心に残るんですよね。何のマンガかなーとか創作絵なのかなーとか思いながらその日は過ぎ去ったんですけど、後日ふと今話題のマンガでもチェックしようと調べてみたら、その子が表紙を飾るマンガを見つけました。

 

『アオのハコ』。まだ2巻が出たばかりのようですがどうやら1巻が既に重版されており、初版の転売が問題になっているそう。

 

歳を重ねると本やマンガも増えていくばかりでいつしか電子書籍に移行した自分だけれど、初版で集めたい気持ちはよく分かるなあ。

初版でシリーズが手元に集まってくる美しさみたいなものや、それが完走できた満足感なんてものはそれはもうどうしようもない自己満足なのだけど、完結した時やその作品がアニメ化・実写化などした際に原作を初版で持っている自己陶酔は、オタクの悪い癖。

 

 

その女の子の隣には男の子がいて恐らく主人公なんだけど、手にはバドミントンのラケット。女の子はバスケットボールを抱えている。主人公とヒロイン、やってる競技は違うのね。競技は違えど上を目指すことは同じで嬉しさも悔しさも一緒に乗り越えて行こうね的なやつね。

 

ていうかこの子、バスケットボールやるんですね……。男子高校生はなァ…ショートカットでバスケ部の女の子が好きって相場は決まっているんだよォ…。

 

そんなこんなで出会ったマンガを読み始めた立派なアラサーなワタクシですが、この度めでたく男子高校生の気持ちを取り戻し、無事恋をしました。

 

ちょっと待ってほしい、これまで何百というマンガやアニメに触れ何千というヒロインを目にしてきたオタクに、ここにきて新たな感情を覚えさせるんじゃあないよ。

 

このマンガのあらすじとしては、バドミントン部に所属する猪股大喜が朝練で見かけるバスケットボール部の先輩・鹿野千夏に恋をして、どうにか距離を縮めたい大喜なんだけど相手は学校の人気者でなかなか上手くいかずも、とあるきっかけで2人の接点が増えていくというもの。

 

大喜のなかなか行動に移せないモヤモヤが特に男性読者にはよく分かるんじゃないでしょうか。好きな女の子を目で追ったりその子のことばかり考えてしまうんだけど、相手はすごく可愛くて周りにもたくさん人がいて、何かと理由をつけてはアプローチ出来ないことを正当化しようとするみたいな。

 

でも鹿野千夏はそんなことなど一切気にせず優しく声をかけてくれたり気遣ってくれる。

テンパる主人公にも快活に受け応えをするし、恥ずかしげもなくマフラーを巻いてくれたりするし、男なら好きな女の子に一度は言ってほしいセリフみたいなものを、鹿野千夏という女の子は惜しげもなくぶつけてくる。

 

こんなの好きにならん奴おらんやろ、っていうタイプのヒロイン。しかも主人公の先輩だから、お姉さん感があってすごく良い。

あの…僕来年30歳になるんですけど…あなたのこと千夏先輩って読んでも…いいですか?

 

このマンガの素敵なところのひとつは、学生の青さを思い出しながら読めるところだと思います。

 

相手の反応を深読みして嫌われてしまったのではないかと勝手に落ち込んだり、仲良さげに話すクラスの男子に嫉妬したり、先述の件もそうですけどそういう学生の頃に誰しもが通ってきた「多感な頃だからこその青っぽい恋」みたいなものを思い起こさせてくれる。

 

例えば千夏先輩がクラスメイトの男子と会話する姿を見て大喜が嫉妬するシーンがあるんですけど、自分のことのように思えてしまって嫉妬で狂えるんですよ。

 

安易なパンチラとかもいりません。不特定多数に千夏先輩のそういった部分を見られることが不快でたまらないから。もしもそんなことがあったらと考えるだけで軽く吐ける。

 

…そういった恋愛感情のような感覚が持てているという事実、恋愛作品として没入出来ている感覚が強く存在していてとても良いです。

 

そんな意味でも主人公・大喜の真っ直ぐさ熱血漢な部分は非常に好感が持てるし、不快にもならない点もポイントが高い。良くも悪くも好青年。

 

本作は今のところ綺麗どころばかりで(恐らくしんどい想いをするキャラクターはいるけど)ベタベタのラブコメを行く気はしている。ドロッとした展開も好きな自分ですが『アオのハコ』については心を痛める展開は嫌だと思えるほど、眩しさが際立つ作品なんですよ。

みんな幸せになってくれ。

『劇場版 Free!-the Final Stroke-前編』感想/七瀬遙は大人になるにあたり何を想い泳ぐのか

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(C)おおじこうじ・京都アニメーション/岩鳶町後援会2021

七瀬遙は大人になりつつある。

 

シリーズを通して、ただ泳げればそれでいいという姿勢から、仲間と繋ぐリレーの楽しさを知り、勝つ喜びを噛み締めることで競技としての水泳に熱を持つようになった遙。

それは競泳において彼が持つ才能から目を逸らさず、好きなことと真正面から向き合うということに他ならない。

 

他人とのコミュニケーションを怠り、その天才性ゆえに誰かを魅了し同時に停滞させてしまう遙。

それでも周りには仲間がいて、その繋がりがそれぞれの階段をのぼらせる。

 

これまで遙は自分への憧れを持つ者が雁字搦めになっていくことに対して解決する術を持たなかった…というより自身の性に無自覚だったけれど、3期『Dive to the Future』以降の彼は以前に比べてだいぶ想いを言語化するようになった。

 

自分を見つめ、他者に目を向け、想いを言葉にすること。それは遙だけの閉鎖的な世界を破り、ひとつ外の自由な場所へと踊り出た振る舞いだ。

 

そして遙の更なるステップと言えるのが、「俺はFreeしか泳がない」という確固たる姿勢から脱却し、郁弥との関係を手繰り寄せるために混メを泳ぐと決めたこと。

 

日常のコミュニケーションでは伝えきれない想いの根っこの部分を伝えるため、共に泳ぐことで分かち合えるものがあるという自分の経験を信じ、遙は決断する。

Freeしか泳がなかった遙が仲間と繋ぐメドレーの喜びを知り、それをひとりで泳ぐ。これまでの遙の苦悩を見てきた僕達は、これを彼の「成長」だと胸を張って言える。

 

本作『劇場版 Free!-the Final Stroke-前編』では、泳ぐ環境が変革する遙に対して、勝負の世界への向き合い方が問われていく。

 

アルベルトと泳いだことで遙が抱いた感情は、アスリート七瀬遙としての本能的なところから来るものだ。

水に愛され思うがままに水を搔くその姿に遙はアスリートとしての血が騒ぐ。それは同じ世界にいながら圧倒的な力を眼前とした恐怖であり興味でもあるが、同時に燃えた闘志は遙をアスリートとしてこれまで以上に押し上げる。

 

「十で神童、十五で天才、二十歳過ぎればただの人」という言葉は、ここに来て遙自身の呪縛となった。

 

ただの人になってしまう前に、アルベルトに勝ちたい。凛とFreeで勝負がしたい。仲間の想いを胸に、皆のためにも泳ぎたい。そんな願望が高まるにつれて二十歳までのタイムリミットが遙の精神を蝕んでいく。

 

水は感情のメタファーだ。「喜びが溢れる」「勇気が湧く」「怒りに満ちる」…そういった水を起点とした表現からも分かるように、水は人の感情を投影する。

しかし、アルベルトは世界戦において喜怒哀楽といった感情を出さない。レースを「仕事」だとすら言い放った彼には、人間としての感情は欠落し勝利の一点のみを見つめている。

 

これまで自由な泳ぎをしてきた遙が、機械的なアルベルトに勝つために何かを捨てる必要を感じてしまう。

何も捨てずに勝利を掴めれば良いのだけれど、きっと我々凡人には分からないトップアスリートとしての本能が、遙を揺さぶったのだろう。

 

では桜の木の下で遙が凛に放った言葉は本心ではないのかと問われると、否だ。

自身を俯瞰した遙が無意識に口に出てしまう言葉を「違う!」と強く否定しているけれど、シドニーでの感情が爆発した結果の、心の奥底に沈む本心ではないか。

 

これまでであれば、共に世界の舞台で泳ぎたいと口調を強めていたのは遙ではなく凛だった。周りの誰よりも先に海を渡り、競泳と向き合ってきたのは誰でもない凛なのだ。

 

その凛が、次の世界大会ではバッタに絞るという決断をする。二十歳までに成し遂げたい遙の想いとは裏腹に、凛は二十歳以降の自身の人生を見据えて、“今は”Freeは泳がないと告白する。

 

勝つためには何も捨てたくないと思う遙と、競泳の世界で生きるために一時的に取捨選択をする凛のすれ違いが、画面の構図としても桜の木が2人の間に境界線を引いているように、またしても溝を作ってしまう。

 

世界で戦うには感情すら捨てないといけないのか。遙が勝利を手にするには、自由とは程遠い自分にならなければならないのか。そもそも何かを捨ててまで手に入れる勝利とは、果たして本当に欲しい自由なのか。本作はそんな遙の苦悩を幕引きとし、後半へと繋げていく。

 

『Dive to the Future』以降、本シリーズにおける競泳の描かれ方は更なる拡がりを見せた。

遙らが大学に進学したことによって彼らが身を投じるプールは全国、そして世界の猛者達が集う場所となった。それぞれのキャラクターが過去との交錯も経て、輝かしい過去や涙を飲んだ学生時代を胸に留めて挑む勝負の地となっていく。

 

勝負の世界はどんな分野だって辛く厳しい。

競技の最前線で勝利を掴むということは、中途半端な才能や覚悟では辿り着けない境地である。

 

そんな厳しい競泳の世界においてトップを目指す者だけではなく、真琴のようにサポートに回る者もいれば宗介のように再び勝負の道に戻ろうとリハビリに励む者もいる。

夏也のように賞金稼ぎとして世界を飛び回る者もいて、本作のテーマのような主役としては描けないながら掘り下げる価値を持つキャラクターという絶妙な立ち位置を見事に作りこんでいるわけだけれど、遙の先輩であり郁弥の兄という立場すらも上手く組み込んでくるのだから、相変わらずキャラクターの動かし方や気配りの上手さには舌を巻くばかりだ。

 

本作はこれまでのシリーズが積み重ねた感情でこれでもかと殴りかかってくる作品だった。

 

かつて岩鳶高校で共に泳いだ渚や怜は先輩という立場となり、もう引っ張ってもらうだけの存在ではない。遙の泳ぎに魅せられ真琴の優しさに包まれてきた2人は、後輩を導き、自身の進路を決めていく。彼らもまた、大人への階段を踏み出している。

 

代表に選出された3人を精神的に支える真琴・宗介・日和もそれぞれ水泳との向き合い方を決めて、夢に向かっていく。

その立場がライバルだろうと友達だろうと家族だろうと、登場するキャラクターが必ず誰かに寄り添う『Free!』。無性にノスタルジーを掻き立てる描写の数々はどれも愛おしい。

 

かつて1人で泳ぐことを選んでいた遙とは違い、アルベルトは支配された環境で1人で泳ぐことしか出来なかったし、金城も1人で泳ぐことを余儀なくされた過去がある。

それぞれのバックボーンからも、内面にたゆたう葛藤を遙がどう変えさせるか。そのために遙はどう変わっていくのか。

 

少年は青年へ、そして大人へ。

岩鳶の小さなプールで泳いでいた英雄は、広大な世界で容赦なく現実を叩きつけられる。その舞台で泳ぐことを許されるのは天才の中でもごく一部であり、厳しい現実で前を進むためには重りを外さなければならない。

勝負の世界である以上、心が休まることはないだろう。それでも、後編は七瀬遙が大人になるための最後の成長痛になることを切に願う。

『BLEACH』読切版(獄頤鳴鳴篇)感想・考察/巡る物語に死神は何を想うか

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週刊少年ジャンプ』2021年36・37合併号より

 

ついに来ました『BLEACH』読切版。

そろそろ『BURN THE WITCH』の続報が来るのではと思っていた矢先だったので、まさか『BLEACH』の方が来るとは思ってもおらず、発表から掲載までさほど日数もなかったのことも相まって心の準備が出来ていませんでしたが読み始めたらあっという間に惹き込まれました。

 

ノローグの双魚は後のザエルアポロの語りや突如として現れる双魚理を暗示しているわけですけど、語り手が誰なのかによって今後の展開は分かれそうですよね。一勇という解釈をしているのですが、「小さい頃」という語り口が気になります。浮竹の線もあるのかな。

 

双魚理が二刀一対であるように、片割れとなってしまった時にその均衡が崩壊してしまうのがこの世界。死神もバランサーの役割も担っていることから、世界の均衡というのは重要な意味を持ちます。

 

地獄の門の抑制となっていた強大な霊圧を持つ愛染やユーハバッハが消えたことで地獄側から口を開けるようになったというのは、まさにその均衡が崩れた結果です。

それをこのモノローグ、浮竹の儀式、双魚理を絡ませて物語の掴みとして引き寄せてくる久保先生の力量には本当に感嘆ですよ。

 

しかしまぁ、これから京楽がより多くを背負っていきそうな雲行きであることはイチ読者としてもなかなかに苦しいものがあります。

今回の一連の流れは一護の持つ死神代行証を触媒としているんですよね。一護を儀式に呼んだのはルキアと京楽とのことでしたし、そもそも浮竹が地獄に堕ちることになったのは京楽と浮竹が双極を破壊したからなんです。

「隊長クラスの霊子は尸魂界の大地に還れないから魂葬礼祭により地獄に堕とす」という迷信を京楽に説明させているのも、京楽に待ち受けるものを久保先生が暗示しているように思えてなりません。

 

どうやら一勇は織姫の目を盗んで夜な夜な出歩いては門を開き、霊を導いているようでした。開いた門を見ると穿界門かとは思ったんですけど、目玉が出ている描写からもこれは地獄の門ではないかと思います。

 

サブタイトルの『NO BREARHES FROM HELL』が最後に『NEW BREARHES FROM HELL』に変わっていることからも、地獄の門を開けている一勇と、地獄からの虚を視認する苺花による物語の動きが見受けられるわけですからね。

 

いずれにせよ、手を鳴らして門を出現させる一勇には何らかの能力があることは見て取れます。本編最終話の『Death&Strawberry』でもユーハバッハの力の残滓を消滅させる描写があったことから、母・織姫の「事象の拒絶」またはそれに近い力を継承しているということが考えられますし、父・一護の死神・滅却師・完現術者としての力も受け継いでいる可能性も大いにあり得ます。

 

気になったのはこれまで腰に差していた斬魄刀を読切版では持っていない点なんですよね。

『Death&Strawberry』では斬魄刀の形が既に変わっていたこともあり、ある程度の力は身に付けていることが想像できましたが、斬魄刀はどこへ行ったのでしょうか。死神としての力に変化があったのか、今後の伏線なのかは気になるところです。

 

でもあの歳で死神としての一定以上の力を示していることや門を開くことが出来るだけでなく、本読切での最後に地獄の門が閉じた後の目玉と目が合って笑っている一勇の様子を見ると、並々ならぬ能力を秘めていることが想像出来ます。

最後の表情を見ても思いましたが、一勇は今のところ織姫似だと感じました。無邪気な言動やおっとりとした表情、あとは目元ですよね。男の子は女親に似るなんて言いますが、随所に織姫を感じて愛おしさが募ります。

 

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少し話が逸れますが、一勇が訪れた神社の「高迦毛神社」を調べてみると「迦毛之大御神」という神様の名が出てきます。

 

この「迦毛之大御神」は死した神をも甦らせることができる、御神力の強い神様なのだそう。現時点でそれ以上の関わりは読み解けませんでしたが、少なくとも死神と地獄の関係性を暗示しているのだと思います。

 

描き方から鑑みても一護主体というよりは、一勇と苺花が軸となっていくように思えます。

残された謎や物語の発端となっているのは間違いなく一勇と苺花であり、本編の最終話からもある程度の世代交代感はありましたからね。

 

そんな中でも日常風景の中にキャラクターの現在を自然に織り込む、そんなさりげなさが素敵です。一勇の能力の高さ、苺花と一角の関係性、尸魂界の発展、一護の職業や同級生との変わらぬ交流…。これまで描かれてこなかった空白期間に対する想いを掻き立てさせます。オタクはちょっとした描写で無限に想起してしまいがち。

 

それこそ一護が翻訳家になっているなんて、『BURN THE WITCH』とのクロスオーバーを想起せずにはいられないわけですよ。かつて尸魂界と現世の橋を架けたように、西と東を繋ぐ存在になってもおかしくはないですよね。ほら、翻訳家になる前にイギリスに留学していたりとか。

一勇が飛び乗った魚の霊が鯉に見えるのも気になります。鯉って神の使いとも言われますし、滝を昇った鯉は龍になるわけですよね。そう、ドラゴンなんですよ。

 

実際のところ今回の読切版は本編の最終話から2年後ということなので、『BURN THE WITCH』の時期と一致しているんです。ファンサービスだけにしては少々行き過ぎているというか、さすがに意図的ではないかと思わざるを得ません。

 

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それぞれの登場人物の姿に一喜一憂しているのも束の間、現世で一護や副隊長らが察知出来なかった霊圧を消す虚が現れます。その造形に苺花だけが認識出来たことも気になる点です。これも苺花(と一勇)独自の能力なのか、子供だから見える存在であったのか。

 

霊圧のない虚はその身に孔が空いておらず、いずれも身体の外側に円を描くような姿。

ザエルアポロも「虚の軛から解き放たれる孔は肉体のそとへ外れ・・・憎しみも苦しみも涙の様に脳から外へ溢れ出る」と口にした通り、通常の虚とは明らかな違いがあります。

 

しかしこのザエルアポロ、一護に対して「今更お前を殺しても手柄にもならんが」という言葉を発します。これは「かつての戦闘で殺せていれば愛染からの手柄があった」という意味にも捉えられれば、「今殺したところで主君から手柄は出ない」とも受け取れるのが少し引っかかりました。後者だった場合、ザエルアポロの後ろに何者かがいることになりますからね。

 

ザエルアポロの話を全て正しいとした時に、地獄から出てきそうなキャラクターは多数いるわけですよ。過去の因縁から始まる新たな展開と、一勇や苺花の代を巻き込んでのストーリーがどう動いていくのか。

 

今回の読切では地獄の存在を明かす『獄頤鳴鳴篇』の導入的な立ち位置でしたが、今後も小出しで少しづつ物語が紡がれていくのではないかと思います。

『BURN THE WITCH』が同時進行中なわけですから、そこまでのスピードでの展開はなさそうですが。

 

早く続きを読みたいという感情と、1度にこれだけ読み応えのあるものを世に送り出してくれるんだからいつまでも待つぞという感情が、いい具合に自分の中に落ち着いています。この感情の均衡は、大切にしたいものですね。

最近聴いている楽曲(2021年夏)

2021年夏と謳っていますが定期的にやっているわけではないです(照)

 

 

ロッキンの中止を受けて、好きなバンドが「フェスに出演予定だったアーティストがそれぞれのファンをケアして、出来るところでやればいい。手本見せてやる。」と言い放って本当に決めてきた9月の横浜アリーナ

 

出来るところで、とは言っても決して簡単なことではないだろうし実現できるアーティストは限られていると思うけど、ファンを想ってくれての姿勢には有り難みを感じる限りです。

 

 

その心意気を最大限に感じるべく当日まで彼らの楽曲を一切聴かない縛りプレイを始めた(思いつき)ことで、普段より多くのジャンルに触れている最近です。これはその記録。

 

 

舞台少女心得 / スタァライト九九組

舞台少女心得

舞台少女心得

  • provided courtesy of iTunes

映画の評判の良さが気になってテレビシリーズと劇場版を駆け抜けた『レヴュースタァライト』から。

 

元々アニメでの使われ方が好きだったんですけど、改めて歌詞を見ながらフルで聴くと舞台少女の覚悟や繊細な心情が感じられて、それぞれのキャラクターに想いを馳せてしまう…。

アップテンポではありますが、どこか切なさも含んでいてオタクが加速する。

 

 

 

わがままハイウェイ / 石動双葉(CV:生田輝)、花柳香子(CV:伊藤彩沙) 

わがままハイウェイ

わがままハイウェイ

  • 石動双葉(CV:生田輝)、花柳香子(CV:伊藤彩沙)
  • アニメ
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

もう1曲、『劇場版 少女✩歌劇 レヴュースタァライト』より。

 

世界観がバチバチに反映されたイントロからじわじわと双葉と香子の気持ちのぶつかり合いが始まるんですけど、2人のデュエットがすごく昂るんですよ。

そして4:15から頭がおかしいくらいに高まる。それでも行き着くところは切なくも美しい友情で、幼い頃から一緒にいる2人だからこその絶妙な関係性を舞台で演じる絶妙なバランス。凄いんですよこれが。

 

 

 

 眠れぬ森の君のため / KANA-BOON

個人的に「タイアップしてくれたらその作品は外さない」ところであるKANA-BOON。彼らのタイアップ曲って作品への寄り添い方がこの上なく絶妙なんですよ。

 

この曲はバンドのスタート位置的な部分とバンドとしての心意気のようなところが反映されていて、第一線で活躍する彼らの人となりが感じ取れて好きです。

 

 

 

 GIRI-GIRI borderless world / LizNoir

GIRI-GIRI borderless world

GIRI-GIRI borderless world

  • LizNoir
  • アニメ
  • ¥255
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『IDOLY PRIDE』の楽曲も今年はよく聴いています。その中でもLizNoirは、声優ユニットとしてのスフィアの立ち位置が強く押し出されていて気持ちを昂らせてくれるんです。

 

曲単体でも高揚感溢れるサウンドなんですけど、アプリのストーリーやYouTubeで公開のMVなんかを見ると、キャラクターの想いに触れることが出来て更に熱を帯びる1曲です。

 

 

 

 君の瞳に恋してない / UNISON SQUARE GARDEN

フェスでよく聴いた曲の1つだなぁとしみじみ思いながら再生しています。

 

言葉少なく音楽で引っ張るのが彼らのスタンスに思えますけど、こういうご時世だからこそそういった「好きなように楽しめ」という姿勢は胸に来ますよね。

 

1音で観客の心を持っていくという意味でもこの曲は爽やかな中に熱さを持っていると思います。

 

 

 

 See You Again / Wiz Khalifa(feat. Charlie Puth)

See You Again (feat. Charlie Puth)

See You Again (feat. Charlie Puth)

  • provided courtesy of iTunes

亡きポール・ウォーカーに捧げられたこの曲。『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』の公開が控えているのでシリーズを見返しているのですが、何度観たって『SKY MISSION』でこの曲が流れる時は涙してしまいます。

 

頭を空っぽにして観られるバカ映画(褒めてる)だと思っていただけに当時は衝撃でした。とはいえ映画ではあれだけ人間関係の大切さを打ち出しているわけですから、スイッチの入れ方ひとつで全然違った感動を味わせられるんだなという気付きでもありました。

 

 

 

 満月の夜なら / あいみょん

満月の夜なら

満月の夜なら

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暑い日が続きますが、汗のにじむ怠さの抜けない季節だからこそ男女のじっとりとした仲を歌い上げるこの曲が妙に夏に合う気がします。

 

あいみょんの日常の切り取り方と音楽への反映の上手さが光ります。

万人受けする曲も書ければ、こういうビターな曲も書けるのは彼女らしさですよね。

 

 

 

 自慢になりたい / SUPER BEAVER

自慢になりたい

自慢になりたい

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言葉選びの美しさが際立つ曲です。

横文字を一切使わずに想いの強さと表現力で歌い切る凄みを感じます。

 

人生において幾度となく訪れる選択を経て、あなたの自慢になるような人間になりたいという心意気の尊さたるや。伸びやかな歌声もあって非常に心に染みるんですよ。

 

歌詞の端々からは気骨があり終始聞き手の心を掴んで離さない、そんなパワーも感じる1曲です。

 

 

 

足跡 / the peggies

足跡

足跡

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人と人との繋がりを心や掌ではなく足跡で表現する。共に歩んでいくのではなく、それぞれが葛藤の渦の中で歩みを進めて然るべき場所で足跡を重ねる、これがたまらないんですよ。

 

爽快なロックチューンでありながら想いを力強く歌い上げる様は胸が熱くなります。

 

後から知ったんですけどヒロアカのタイアップ曲なんですね。ヒロアカは旬なアーティスト起用が本当に上手い。

 

 

 

青春に、その涙が必要だ!

少し久々に聴いているステレオポニー。爽やかで伸び伸びとした音楽が夏によく合います。

 

気持ちが先走ってしまうほどの胸の高鳴りを淀みなく歌うこの曲はまさに青春らしさと泥臭さが混ざり合い、思わず走り出したくなるような疾走感がたまりません。
 紡がれるワードは若さが眩しいんですけどその想いは確かなもので、まさに青春そのものです。

 

 

日頃聴く楽曲はアーティストの偏りがかなり酷いので、色々オススメして下さい。

 

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『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』感想/キラめき求めて少女は再生産する

おい、オタク共。

あまりふざけすぎるなよ?

 

『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』。公開されるやいなや絶賛の嵐。レビューサイトでも軒並み高評価。ツイッターでも興奮冷めやらぬ様子の感想が流れてくる。

 

いくら何でもやりすぎだ。印象操作のために巨額の富が動いているのではないかと疑うレベルで好評なのだ。

アニメオタクどころか映画オタクも映画館の床に額をこすりつけて「この映画を観ないと2021年の映画は語れない」なんて泣き喚いているザマだ。

お前達はいつブ〇ロの犬になったんだ?おやつ片手に散歩に連れてってやるから教えてくれ。

 

…そうか分かった、そこまで言うならこの目で確かめようじゃないか。

 

テレビシリーズも総集編もそして完全新作も、全て観てからまたお前らと対峙しよう。それまでキリンのように首を長くして待っていてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うおおおおおおおおおお何だこの湧き上がる感情は!!!!!舞台少女達が胸に秘めた叫びを舞台を通して演じ切る!!!!!!!!しかしそれは演技の枠を超え、その一挙手一投足で我々観客に理解を促してくる!!!!!!!

彼女らはただ演じているのではない、身を削り青春時代を捧げ人生そのものを舞台に投影しているのだああああああああああああああうわああああああああ!!!!!!!!!!!!!花柳香子ちゃん可愛いよおおおおおおおお!!!!!!???!?!!!?!!

 

 


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非常にカロリーを持っていかれる映画だった。舞台少女達による儚くも熱を帯びた想いがスクリーンを駆け巡り、彼女らが愛する「舞台」として展開されていく。

目まぐるしく展開されていく物語に思考を巡らせようと必死になるも、それを上回るスピードで多重構造によって繰り出される舞台の数々に圧倒されてしまう。

 

テレビシリーズ後を描いた本作。愛城華恋ら聖翔音楽学園99期生は3年生となり、卒業後の進路を考える時期を迎えていた。

 

トップを目指し、有名校を受験するのか。日本国内なのか、海外に挑戦するのか。女優の道を行くのか、裏方を学ぶのか。はたまた普通の大学に進学し勉学に励むのか。少女達は岐路に立ち、その感情は揺れていた。

 

本作は、そんな揺れ動く少女達の心情を非常に繊細に舞台化し映像に落とし込んでいた。

 

テレビシリーズで描かれたキャラクター間に生まれた尊敬や敬愛、憎悪、嫉妬…様々な感情をより剥き出しにしている。凄いと思ったのは、本作は続編でありながらテレビシリーズの仕上がりに決してあぐらをかくことなく、劇場版としての演出を高めていたことだ。

 

本来ならテレビシリーズの演出をファンサービスとしてスクリーンで展開することも少なくはない。何なら劇場版鑑賞前は、華恋の口上前の衣装を仕上げていく流れをバージョンアップさせて映し出してきそうだ、などと思っていた。

 

しかし、『劇場版 少女☆歌劇 スタァライト』はそんな観念には囚われない。むしろテレビシリーズを土台として、岐路に立つ舞台少女を体現するかのように、新たな作品として描いている。

 

 

急展開で観客の心を掴むのは劇場化作品での続編などでよくあるけれど、本作もいきなりギアが上がる。一行が地下鉄に乗っているシーンである。

 

お馴染みの着信音が地下鉄のアナウンスのように流れると、そのレヴューは開演する。

「皆殺しのレヴュー」では少女らが血を流し、次々と息絶えて行った。容赦なく降り注ぐ血飛沫もすぐに舞台装置によるものだと分かるけれど、そのやりとりはテレビシリーズ以上に日常と舞台との狭間がかなり曖昧なように感じた。

 

この一連の流れにはやや直接的な描写もあったが、後に息絶えた少女らと生きた本人達が並ぶ演出がある。本作ではいくつかのレヴューが展開されるが、作品を通じてのメッセージ性が特に強いメタファーとなるレヴューは「皆殺しのレヴュー」だったと思う。

 

描かれ方が印象的だったトマトは、舞台少女にみなぎる血であり沸き立つ心を示すものだと捉えている。砂漠で激しく潰れたトマト。かつてひかりが囚われた砂漠のように渇いて、心を飢えさせたその環境ではオアシスに足を突っ込んでいたのはキリン(=観客)であり、しかし当の舞台少女は心が干からびたままだ。

 

そこに、みずみずしいトマトの恩恵。砂漠という環境において僅かな量でも水分を得られるありがたみに触れられたのならば、活力源となりえるのではないだろうか。

 

言うまでもなく、人間は血が足りないと死んでしまう。では、舞台少女は?心に宿すキラめきがなくなった時、舞台少女は演じることに何を見出すのか。

 

99期生は演目スタァライトを演じきるも、今や進路のことで頭を悩ませ揺れ動く毎日だ。そこに映し出されていたのは、将来への希望よりも過去の栄光だったように感じた。やり切ったスタァライトの公演で、彼女達はある種の完全燃焼とも言える状況だったのではないだろうか。

 

そんな状況下で、乾いた状態の彼女達。再演を思いもよらない形で演じることとなった大場ななにより、舞台少女らにレヴューを決意させるに至る。だからその導入としての「皆殺しのレヴュー」は本作におけるレヴューの始まりであり、血飛沫=トマトをこれでもかと撒き散らす必要性も納得できる。(それを口に含んじゃう花柳香子ちゃん!!!!!!!!!)

 

テレビシリーズから大場ななの描き方はかなり特殊だったけど、本作では愛城華恋の掘り下げ方は良かったと思う。

 

トップスタァを志すに至るきっかけと過程そして現在の3つの点を、ひかりの存在によって線で結ぶ。それらの描写を舞台少女達のレヴューの合間に挟むことで、収束していく華恋とひかりの物語に説得力を持たせていく。

 

テレビシリーズでは特に華恋1人ではなく、ひかりとセットでの描かれ方が強かったが、煌めきを増していく主人公たる理由がきちんと落とし込まれていたことは素晴らしい。

 

2人のレヴューで手紙を舞台装置としてさも当たり前のように使ってくる憎い演出。東京タワーを約束の架け橋としたあの頃から、今度は更に時を経て始まりの手紙で2人を照らす。ここまできて尚痺れる。

 

互いに不安も抱きながら舞台少女として階段を駆け上がってきた2人が、レヴューによって奪い合う立場となっても、それが人生なのだと気付かされる。

 

私たちはもう、舞台の上。

苦悩しながらも日々努力を重ね、その先に舞台の成功がある。そしてその舞台はやがて幕を下ろし、また次の舞台のため稽古に励む。

 

誰にだって訪れる心の渇きも、癒すための経験をしていかなければならない。

そんな繰り返しから生まれる尊さも、スタァライトが紡ぐ物語だと思う。

 

ポジション・ゼロ。そこに行き着くために何度だって再生産を。

『ブラック・ウィドウ』感想/ナターシャの生き方を肯定したのは家族だったということ

当初の予定日からおよそ1年2ヶ月経ってからの『ブラック・ウィドウ』公開。スクリーンにおかえりなさいMCU

 

『エンドゲーム』後のMCUの世界観はドラマシリーズと並行して展開されていくわけだけど、コロナの影響で公開の延期や順番の変更などがあって、『ブラック・ウィドウ』の公開までに3作品のドラマシリーズが配信された。

 

特に『ワンダヴィジョン』と『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』は主にワンダ、サムとバッキーが『エンドゲーム』での出来事とその後のヒーローとしての己とどう向き合っていくかというテーマ性が強かったが、しかしドラマゆえの長尺であることも相まって、どのシーンでも感情を大きく揺さぶられるような『エンドゲーム』との落差は否めなかったし(もちろんどれもクオリティが高く十分に楽しめるのだけど)やや肩透かし気味でもあって、だからこそスクリーンでのMCUはおおいに待ち望んだものであった。

 

公開初日に鑑賞して来た。やはりこの規模の作品を観るのは映画館に限る。

 

映像や音響といった環境による要素はもちろん、映画としての尺であるがゆえの収まり具合は物語をグッと引き締めてくれる。

 

※以下ネタバレを含みます

 


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全体的にもまとまりの良い印象は受けた。『インフィニティ・ウォー』と『エンドゲーム』の間の空白期間にナターシャ・ロマノフはどこで何と戦っていたのか。ヒーロー達が決裂した情勢を間接的に説明しながら、『ブラック・ウィドウ』ではナターシャのヒーロー像をダイナミックに時にセンシティブに描く。

 

ナターシャがアベンジャーズの一員として世界を救うことは、贖罪の意味合いが強かった。幼少期からスパイとして訓練を受け、決して許されないようなこともしてきた彼女が、ヒーロー達と交わり、やがて人々を助け役に立ちたいと強い信念を持っていく。

 

そもそもブラック・ウィドウが世界最強のスパイとなった導入は、彼女自身の意思によるものではない。強い愛国心と正義感を持つスティーブ・ロジャースは自ら志願して強靭な肉体を手に入れたし、トニー・スタークは自身の経験と知恵を活かしてアイアンスーツを我が物とした。だが、ナターシャはレッド・ルームでのプログラムを受けさせられたに過ぎず、そこに彼女の意思は一切なかった。

 

だからこそ超人能力を得たきっかけが自身の意思に関係なかったブルース・バナーとは通ずるものがあったのだろうし、己の信念を全うしてその地位を確立していくスティーブやトニーに感じるものもあったに違いない。

 

今作において僕が最も心を動かされたのは、最終決戦前に家族が食卓を囲む一連のシーンだった。

 

およそ20年ぶりに顔を揃えるナターシャ、エレーナ、アレクセイ、メリーナの4人。

 

団欒の時間を明るく豪快に盛り上げようとするアレクセイ。ナターシャの猫背を指摘するメリーナ。久々の再会で男女のやりとりに熱をちらつかせる。そこに見えたのは、長年連れ添った父親と母親のような姿だ。

 

本題を急ごうと苛立ちを見せるナターシャの言葉に対し、思わず声を荒らげ部屋を出ていくエレーナ。その姿を追うアレクセイ。目の前の光景は、不満を漏らす娘とそれをなだめようとする父親ではないか。

 

それぞれが久々の再会だし、どこかピリッとした空気を出してもいたけれど、それでも互いが互いを思いやる心はしっかりと感じ取ることが出来た。そう、このシーンでは既に家族のやりとりがはっきりと描かれている。

 

離ればなれになった後も、それぞれが心のどこかで血の繋がらない家族を想っていた。再会後、20年ほどの長い年月バラバラだった家族が、不器用ながらもさほど時間を要することなく団結できた背景は、そんな互いへの募る想いがあったからだろう。

 

そんな距離感は姉妹間でも見られる。

冒頭、幼少期のナターシャとエレーナが外で元気に遊んでいる様子からして、しっかり者の姉とやんちゃで少し泣き虫な妹というキャラ付けが印象に残る。

 

オハイオからの脱出後レッド・ルームへ戻される際にも妹を守ろうとする姉の勇ましさや卓越した才能が痛いほどに伝わってくる。妹はいつだって姉の1歩後ろを歩いている、そんな印象だ。

 

だからブダペストでの再会もアドバンテージをとったのはナターシャだったし、タスクマスターから逃げ仰せた時もドレイコフの目を欺こうとした時も主体的だったのはナターシャだ。

 

それが主役だからと言うのは簡単かもしれないけれど、MCUらしい過去からの積み重ねが花開かせるようなエモーショナルな演出はやはり心を掴んで放さない。


エレーナを演じるフローレンス・ピューの妹感がとにかく良かった。姉妹の口喧嘩での茶目っ気ある口ぶりや、気を許した時のふとした表情が実に愛らしい。それでいて任務中は意外と大味な言動で少々危なっかしいところも可愛げがあって、隙のないナターシャとの対比がなされていたと思う。

 

物語が進むにつれ、この姉妹が互いに背中を預けながらアベンジャーズとして人々を救っている姿が見られない事実に胸が締め付けられるような想いでもあったし、だからこそドレイコフを追い詰めタスクマスターと対峙した時には2人のバディアクションをもっと見たかったとは思う。

 

ただ、タスクマスターの他者の戦いをコピーするという設定によって、キャプテン・アメリカブラックパンサー、ウィンターソルジャーらの戦闘スタイルを自然と取り入れ、ファンへ目配せもしてしまう構成の上手さは流石の手腕だ。

そして、この設定はそんなファンサービスの意味合いに留まらないのも素晴らしいと思う。

 

ナターシャは人並み外れた身体能力を持つが、人間だ。特殊なスーツを身に纏うことも人外の力を使うわけでもない彼女は、アイアンマンやソーのような派手な戦い方は出来ない。

なので、画面上の都合だけで言えば、超人達に比べるとアクションはどうしたって地味になる。

 

それを補うかのようにタスクマスターのコピー能力は絵面としての華やかさを持たせると共に、立ち向かうナターシャのより高度なアクションを自然と引き出してくれるのだ。

 

常人相手では世界最強のスパイの敵にはならず役不足が否めないが、「ヒーロー達のスタイルを模しているのだからナターシャが互角になるのも無理はない」という口実を作ることに成功している。

 

そして今作では「ナターシャの過去の過ち」が「タスクマスターの誕生」に繋がることが明らかとなり、「事態の収束=タスクマスターに打ち勝つこと=ナターシャが自身の過ちに向き合うこと」という連鎖が見て取れる。

 

そこに「ナターシャは家族という関係性をひとつの理想として思い描いているが、自分の家族には血の繋がりがないこと」と「自分の過ちから1人の少女の人生を奪い、それを兵器として利用するドレイコフに憤りを感じるも当の2人は血縁関係にあること」のやるせなさをドラマとして上手く組み込んでいるのだ。

 

姉妹が母から学んだ、痛みは人を強くするということ。ナターシャは自身の過ちに燃えるような罪悪感を覚え、その痛みを胸に秘め生きてきた。

アントニアを洗脳から解いたことがナターシャの罪からの解放と同等レベルかと言えば個人的にはNOだし、少し腑に落ちていないところでもある。

 

けれど、直接謝ることが出来た事実は意味合いとしては大きく、家族を決別させることを許せないとするその心情が、『エンドゲーム』でのナターシャの最期に繋がったのかもしれない。

 

もしかしたら、サノスの指パッチンでアントニアも消えてしまっていたのかもしれないけれど、ナターシャの決意によって再び生を受けることが出来ていたのなら…贖罪を続けていくナターシャらしい生き方だったと言えるだろう。

 

ナターシャの生き方を肯定してくれたのは、幼い彼女を育てた血の繋がらない両親と妹であり、罪の意識を共に背負ってきたアベンジャーズの面々、そんなかけがえのないふたつの家族。

 

そして、男性による女性の支配を色濃く描いた『ブラック・ウィドウ』において、その構図に真正面から立ち向かっていくナターシャ・ロマノフは、間違いなくヒーローだった。

アメリカン・パイ

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アニメ『スーパーカブ』感想/これはないない少女の物語であり、僕達の物語に違いない

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(C)Tone Koken,hiro/ベアモータース

 

最初は何気なく見てみようかという程度の意識だっただけに、アニメ『スーパーカブ』1話を観た時の衝撃は相当なものだった。

 

鑑賞後、胸にほんのり残った高揚感。導入部分であるからして特段大きな動きがあったわけではないのに、そこには尋常ではないくらいの密度を感じた。

 

事前情報としては山梨県を舞台としていることと、女の子がカブに乗るであろうことをキービジュアルやタイトルから察していた程度。

直前に、同じく山梨県を舞台にした『ゆるキャン△』をちょうど一気見していたタイミングだったこともあり、女の子がカブに乗ってあちこちを訪れるようなイメージを勝手に持っていただけに、思い描いていた作風とのギャップはより一層大きかった。

 

両親も友達も趣味もない、何もない日々を過ごす女子高生・小熊が、中古のスーパーカブとの出会いをきっかけにその単調な日常が変わり始め、世界が徐々に色付いていく。本作はそんな様子を実に丁寧に描いているのだが、随所に見られる繊細さには本当に頭が上がらない。美術も演出もセリフ回しも、その全てが『スーパーカブ』の世界観をあますところなく描き、包み込んでいる。

 

まず感じたのは、「静けさ」だった。

目覚まし時計の音で始める朝。シャワーを浴びて朝食をとる。自転車に跨り、何も無い女の子がいつものように学校へと向かう。

 

BGMもない無音状態で、コップを机に置く音やパンにマーガリンを塗る音、水筒の蓋を締める音といった、なんでもない生活音がやけに目立つ。

 

退屈な授業も、ひとりぼっちの昼食も、坂だらけの帰り道も、全てが淡々と進んでいく。

 

そこに青春らしさ溢れる快活とした様子や和気あいあいとした他者の介入は一切存在しない。女子高生とは思えないほど、小熊は孤独に生きていた。彼女にとって普段と何も変わらないひとりだけの生活は、とにかく静かに進行している。

 

それだけに、ほぼ生活音だけで描かれる冒頭は印象的で、その「静けさ」が地域性であったり、小熊の「何もなさ」を物静かに主張していることが伺えるのだ。

 

だからこそ、彼女がスーパーカブと出会い、エンジン音が響いたその瞬間に鼓膜を通して伝わってきたものは興奮そのものであり、これまで静けさによって描かれた小熊の日常がこれから変わっていくことを示すサインとも取れた。

 

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(C)Tone Koken,hiro/ベアモータース

 

カブに乗って走り出してから響き渡るエンジン音は実に心地よく、それまでの静けさとは一変して小熊の高揚感を表現するかのようなその快調な音は、いち女子高生の心情描写としても、『スーパーカブ』という作品における象徴としても、これ以上ないほどの巧妙さだと思えた。

 

そしてこの「静けさ」はすなわちキャラクター同士の会話の少なさを浮き彫りにする、あるいは最低限の会話でのストーリー進行を成立させていることも示している。

 

小熊が会話を交わす主な相手は礼子だ。しかし、この2人の間には必要以上のやりとりを感じない。それは尺の都合という話ではなく、カブで繋がる2人には言葉にせずとも伝わるものが存在するということを指す。

 

さらにそれを引き立たせるべく、きちんとした「間のとり方」にも作り手のこだわりを感じずにはいられない。言葉と言葉のあいだにはきっちりとした間を持たせ、最低限のセリフとキャラクター同士の空気感を殺すことをしていないのが本作のアニメとしての魅力のひとつだ。

 

この「間のとり方」を大切にしているからこそ作品の雰囲気を損なうことなく、ゆったりとした時間の流れをそれとなく演出し、我々受け手側にも没入感を与えてくれる。だが、緩やかなスピード感は決して遅いとは感じさせず、僕達の心をグッと掴んだまま物語を進めていく。

この絶妙なバランスを映像作品に落とし込んでいることに、感動すら覚えてしまう。

 

また、音の要素としては作中で流れるクラシック音楽も特徴と言えるだろう。

生活音が目立つほどの静かなる時の流れを演出し、そこに時折かかるクラシック音楽。平穏な暮らしのゆったりとした雰囲気を効果的に醸し出してくれる。

 

選曲としても聞き馴染みのあるものが多いので、安心感がある。ここまで親和性が高いとは、本当に見事だ。

 

色彩の使い方も印象的だ。

ないないの女の子がカブとの出会いで生活が色付いていく、そんな物語は彼女がカブに跨った瞬間に変化が現れる。

 

カブの購入を決意し、初めてエンジンをかけたその刹那、暖かみの深い色が画面いっぱいに広がる。これまでの淡く冷たいイメージが先立つ色彩から一転し、小熊の世界の可能性を感じさせる。小熊の喜びや驚きに満ちた表情やうわずった声色も相まって確かな高揚感をもたらしてくれる、この演出も素晴らしい。

 

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(C)Tone Koken,hiro/ベアモータース

 

何かに出会った瞬間に色彩が鮮やかになる演出は話数を重ねるごとにその対象が少しずつ変わっていく。

 

それは友人が出来たことだったり、美味しいコーヒーを飲んだことだったり、素敵な雪景色を拝んだことだったり。その全てがカブに出会ったからこそ得られたもので、今後の彼女を形成していく財産になっていくのだろう。

 

確かに彼女の生活はスーパーカブに乗り始めたことで変わり出した。だが、彼女が得ていくものというのは、なにも全てが真新しいことでも、珍しいものでもない。

 

友人となっていく礼子や椎はクラスメイトだ。他校の生徒でもなければ他県に住む女の子でもない。

レトルトが安く売っていることを知ったスーパーもこれまでは自転車で行くことがはばかられる距離であっただけで、地域内にあった店舗だ。

高々とそびえ立つ富士山も、真っ白な銀世界が広がる高原も、カブに乗って訪れたことでその魅力に気付いたわけだが、いずれ小熊が住む山梨県内なのだ。

 

手の届くところにあったものが、カブとの出会いひとつでこれほどまでに彼女の宝物として心に刻まれていく。得ていくものとの距離感が遠いものでは無い、その現実味を帯びた尊さが僕は好きだったりする。

 

特に、人が生きる上で欠かすことできない「食」において彼女の変化が顕著に出ているのも興味深い。

 

カブに乗ってのアルバイトにおいて奮発した甲府の鶏めし弁当。修学旅行でどうしても諦めきれなかった鎌倉グルメ。椎の店で飲む嗜好品としてのコーヒー。

 

炊いたご飯にレトルトをぶっかけるような食事をしていた小熊がスーパーカブとの出会いをきっかけにこれまでとは異なる食生活を少しずつ始める。

 

タッパーに入れた冷えたご飯を食べていたのが、メスティンを購入してからは温かなご飯に変わった。単なる栄養補給が目的だった食事が、いつしか友達とその温もりを共有する手段になっていく。

スーパーカブ』の魅力のひとつにはそんな「地に足のついた小熊の成長」が挙げられるだろう。

 

それこそ小熊から見た椎も、小熊をスーパーカブとの出会わせてくれた存在だと認識するまでに少しばかり時間がかかった。

 

日々の学校生活で自転車の重いペダルを漕ぎ、かつてはバイクはおろか、同じ自転車にだって追い抜かれていた。そこにはしっかりと椎の姿が描かれているわけだけれど、その時の募る想いが小熊をカブの購入へと駆り立てる。

 

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(C)Tone Koken,hiro/ベアモータース

 

小熊も礼子も近くに家族がいない。小熊には名前がないし、礼子には苗字がない。

それに比べてフルネームの椎には両親がいて、家族経営をするカフェがあって、そのカフェを継ぐ夢を持っている。ないないの女の子とは正反対の少女だ。

 

そのことを小熊は心のどこかで羨んでいたのだろう。だから自分や礼子を尊敬しているという椎の考えに納得をしていなかったけれど、ようやく彼女なりに合点がいき、またひとつ世界が色付いた。

 

カブとの出会いで生活が劇的に変わるのではなく、これまで周囲にあったものを認識し、自分の中に落とし込み、糧としていく。

 

カブの基本操作や装備の増加をトライアンドエラーで繰り返していき最適解を見つけていくことにも同様のことが言える。凍えるような寒さの冬の時期に頭を悩ませていた小熊は、ウインドシールドやタイヤチェーンなどでカブとの生活を我がものとしていく。

 

日本には四季があり、春夏秋冬それぞれの顔を見せてくれる。春の草木も、夏の日差しも、秋の紅葉も、冬の雪景色も、我々に訪れる生活の一部だ。だがそれは全てが良いものとは言えなくて、特に冬の寒さなんてものは彼女らの肌を痛く刺す。

順繰りに巡る四季で特に辛さが先行する冬は、日常的な試練のひとつと言って遜色ない。人生は山もあれば谷もあって、小熊のカブへの向き合い方は人生の縮図とも捉えられるのではないだろうか。

 

日々のひとつひとつのちょっとしたことが積み重なって、大切なものへと変わっていく。

それは人との繋がりかもしれないしお金かもしれないし経験かもしれないけど、そのどれもが少しのきっかけで変わっていくことができると教えてくれるのが『スーパーカブ』という作品だと思う。

 

彼女にはカブがある。

ちょっとしたきっかけで世界を広げていった彼女は、これからもどこへだって行ける可能性に満ちている。

 

そしてそれは誰にだって言えることであり、何気ない日常もふとしたきっかけで色付いてくれるということをさりげなく、本当にさりげなく、示してくれるのが『スーパーカブ』なのだと思う。『スーパーカブ』は小熊の物語であり、僕達の物語でもあるのだ。

 

そう考えると、日々の当たり前のことにも少しばかり目を向けてみようか…なんて、そんなことを思ってみたりもする。僕達の日常がちょっぴり色付くのは、もしかしたら今日なのかもしれない。

 

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』はファンひとりひとりの作品でした

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を公開初日に観てきました。いやはや、このような形で描き切るとは。感無量でした。

 

心の準備が出来ているのかどうなのか、自分でも分からないままその日を迎えていましたが、何を見せられても出来る限り受け止められればいいなと願っていました。

 

僕はテレビシリーズのリアルタイム世代ではないですし、当時を知らないお前如きが偉そうに語るなと言われればただただ唇を噛んでいるだけになってしまうかもしれません。それでも、多くの人達がそうであるように、僕もまたエヴァという作品を特別に思っているのは事実なのです。

 

僕のオタク趣味の始まりは『エヴァンゲリオン』でしたし、声優というお仕事を生業とする人々への興味は惣流・アスカ・ラングレーがきっかけでした。いまや自分を象るカテゴリーのひとつとなっていると、はっきりと言えます。

 

ただ、当時の僕は確かにエヴァに魅せられたのですが、この作品をどれだけ理解出来ていたのかというと実に怪しいところで、魅力を上手く語るほどの術も持たず、かなり感覚的な部分が多かったように思います。

 

今でもそういった点は多少なりともあるのは事実ですが、あれから10年以上が経って様々な経験をし現在の自分を形成している中で、作中の描写に気付きを得られることが増えた実感がありました。『エヴァンゲリオン』にも『ヱヴァンゲリヲン』にも少しは近づけた気がして、まずそれが嬉しかったです。

 

実際、テレビ版も旧劇場版も新劇場版も、庵野監督の心情や当時の社会情勢などが色濃く反映されています。この作品は誰が何を想いどのようにストーリーやキャラ描写としてオマージュされ、それを我々はどのように捉え受け止めていくのか。

 

エヴァはそういった投げかけられたテーマをファンひとりひとりが解釈し落とし込んでいくことの意義が特に強い作品だと思っています。考察の類いには思わず唸ってしまう素晴らしい視点のものもあればかなり個人の感覚に頼った視点のものもありますけど、どれもこれもその人にとってのエヴァなんですよね。

 

エヴァに乗らない幸せ”も突き詰めれば人の数だけ存在する人生を肯定することに繋がっていて、すごく希望に満ち溢れた今作。ここまで綺麗に終わるのかという戸惑いもあり「終劇」後には思わず天井を見上げてしまいましたが、そこには作品から頂いた生きる活力も確かに存在して、様々な感情が螺旋状にぐるぐると駆け巡るような不思議な感覚に陥りました。

 

兎にも角にも、テレビ版・旧劇場版・マンガ版これら全てを内包し、終結へと向かったこと。向かわせてくれたこと。素晴らしいに尽きる。

 

短い感想だけれど、今はこれでいいかなと思っている。ストーリーやキャラクターの細かな点については改めて書くなり誰かにぶちまけるなりします。

 

さようなら、全てのエヴァンゲリオン

制作陣の方々お疲れ様でした。そしてありがとうございました。

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『IDOLY PRIDE』が描く「対を成すもの」についての所感や考察

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【#これはただのアイドルアニメではない】

 

すごく勝負に出た打ち出しだと思います。これまで数あるアイドルアニメが世に出て、大規模な展開を続ける作品も少なくないですし、それらに触れてきて目も耳も肥えたオタクという人種に対してまっすぐな宣言を公式自らが発信しているわけですからね。

 

何をもってして「ただのアイドルアニメ」なのかという部分はありつつ、やはり他の作品と一線を画した何かを期待せずにはいられません。アニメを、キャラクターを、楽曲を、それらを通して一体どのようなものを魅せてくれて、また何を感じさせてくれるのか…『IDOLY PRIDE』には多くを求めてしまう自分がいる。

 

 

現状として本作に対して感じていることは、「対を成すもの」を一貫して描いているなということと、それらが終結した時にどのような感動が待っているのだろうという期待と不安。いくつかのテーマはあれど、詰まるところ『IDOLY PRIDE』が描きたいメッセージはそこに集約されるんじゃないかなと。

 

最終話までまだ話数は残っていますが、今回は現時点で『IDOLY PRIDE』の「対を成すもの」から見て取れる作品のメッセージや今後の展開についての所感や考察となります。

 

 


TVアニメ「IDOLYPRIDE -アイドリープライド-」トレーラー

 

①麻奈と牧野

1話。当時学生だった牧野は、自分と麻奈を決して交わらない光と影だと表現しました。可愛げがあって人気者の女の子に対して、冴えない自分は脚光を浴びることのない影なのだと。

 

アニメやマンガではこの構図は手垢のついたものですけれど、しかしどうでしょう。麻奈にとって牧野をマネージャーに据えたことは、本当に「ただ席が隣だったから」なのでしょうか。

 

麻奈はなぜ牧野にマネージャーを頼んだのか。スカウトされて星見プロに所属する際に、なぜ牧野をマネージャーにすることを条件としたのか。

 

アイドルという輝かしい存在になるべくこれから人生をかけようという時に、ただ隣の席に座っているだけのクラスメイトにその一端を担わせようとするでしょうか。追って描かれていくストーリーではあるのでしょうけど、ここは本作の肝の部分のひとつだと思っています。

 

さらには麻奈と牧野は「死者と生者」という点で対立した存在です。

 

2話で麻奈が自身の死後の琴乃の日常を知らなかったことから、麻奈は牧野から離れていないことが窺えます。だって仮に自分が急死して幽霊になったとして、普通は家族や友人の様子を見に行きませんか?自分を慕ってくれている妹のことを見に行かないというのは、少し考えにくいんですよね。

 

後に芽衣とふたりで映画館に行くシーンがありますが、芽衣は麻奈を視認できる存在なので、上記をふまえても恐らく麻奈は自身のことを見られる人間の周囲にしか居られないのだろうと考えています。

 

事故から芽衣の登場まで、麻奈は牧野から一定の距離以上は離れていないと仮定すると、今回のプロジェクトを立ち上げるに至るまでの牧野の苦労を麻奈は理解しているでしょう。プライベートまで近い距離にいるので、三枝よりもその解像度は高いかもしれませんね。

 

2人の絆が今後どのような形で花を咲かせるのかは、クライマックスでしっかり描かれていくに違いありません。

 

ところで、自分を影だと表現していた牧野でしたが、麻奈は幽霊になったことで一般的に言えば影側の存在になったんですよね。

だから対の関係ではありながらも同じ属性でもあって、今後どのようになっていくのか…。一応、プロローグで牧野が天を仰いで麻奈の名を口にするシーンがあるので、恐らく麻奈は成仏していくのだと思っていますけど、そうなれば彼女は天に逝き、そしてそれを光だと捉えるのならば、やはり光と影に帰化するのでしょう。

 

 

②琴乃とさくら

琴乃のNEXT VENUSプログラムの頂点に立つという目標は、麻奈の夢の継承です。オーディションの時点で周到に準備していたことは明らかですし、星見プロ所属後もステップアップのために余念がなく、多くのメンバーとの意識の違いが顕著でした。

そしてそこに現れたのが麻奈に似た声を持つさくらになります。

 

麻奈の実の妹であり容姿も似た琴乃と、麻奈に似た歌声を持ち麻奈の心臓を宿している可能性があるさくら。一躍トップアイドルに躍り出た麻奈の夢の後を追い、容姿と歌声で補完し合う2人。そして麻奈のことで意識的にアイドルになった女の子と、直感的にアイドルになった女の子という、異なるベクトルから同じ方向を見ている2人でもあります。

 

牧野は2人のどちらをリーダーにするか迷い、結果として互いの輝きを最大限に発揮できるように決断したわけですが、かつて麻奈を最も近くで見ていた彼の判断がこの2人を軸に据えたことからも、今後の彼女らには眩しさを感じるのだろうと期待しています。

 

 

③サニーピースと月のテンペスト

星見プロで一堂に会したメンバーでしたが、牧野は彼女らを2つのユニットに分断する。サニーピースと月のテンペストはその名の通り、太陽と月を冠した対象的なユニットです。

 

ユニット名から考えるメッセージ性ですが、太陽と月ってそのどちらもが人々の日常に寄り添うものですよね。

力強く暖かく、静かに鮮明に。異なる光だけれど、人々を照らす大事な存在。雲(ここでは人々の心の陰りをも表しているのでしょうか)さえなければ上を向けば確かに輝き、例え曇り空でもその向こう側できっとあなたを待っている。まさにファンにとっての大切なものの象徴をその名に宿した素敵なユニットだと思います。

 

「アイドル」という存在を作品の軸に据えた時に“ファンにとってのアイドル”をどう捉えて描いていくのかは根幹の部分でしょうけれど、『IDOLY PRIDE』に関してはサニーピースと月のテンペストのユニットそのものが答えなのではないかと考えています。

 

 

④麻奈と遙子

『IDOLY PRIDE』では長瀬麻奈がアイドルとしてかなり神格化されている節がありますよね。新人ながら破竹の勢いでその名を世に轟かせ、今後のアイドル界を牽引していく逸材のように映ります。

 

一方で5年前に同じ星見プロでアイドル活動をしていた遙子はお世辞にも売れているアイドルとは言えませんでした。改めてアイドルとして琴乃達としのぎを削っていくわけですが、加入時にすずには事務員だと勘違いされていた始末。

 

ここ、すごくリアルじゃないですか。

数え切れないほどのアイドルがいる時代。AIでランク付けされるような世界において、いかにたくさんのアイドルが活動しているかが伺える中で、日の目を見ないアイドルって山ほどいるはずで。

 

麻奈があまりにも目立っていますけど、その光が眩しすぎるがあまり近くの存在の影は濃くなっていくばかりで、その存在に目が行かないというか。

 

遙子からしたら人気を博すアイドルがすぐ近くにいるのに、自分は燻ったままだという状況に焦りを覚えないわけはなく、苦悩もあったに違いないんです。それでも諦めることなく事務所にその身をおいてこの度のプロジェクトで奮起していく姿はとても美しいものですし、アイドルに関わらず多くの人々に勇気を与えてくれる素晴らしい心意気ですよね。

 

親の決めた道から外れて自分がしたいことをするためだという怜のバイトをする理由にも言えますけど、それぞれのキャラクターがトップアイドルを目指して努力していく過程に、我々に勇気を分けてくれることもあって『IDOLY PRIDE』の魅力のひとつだと思います。

 

 

⑤麻奈と琴乃

本作において長瀬麻奈の存在はとても大きいものです。小さな街から生まれたアイドルは瞬く間に人々を魅了し、トップアイドルへの階段を駆け上がっていきます。

アイドル達にとって目指す目標であり、超えたいと願う憧れの存在。それが長瀬麻奈。

 

妹の琴乃はそんな麻奈の姿を見て過ごすわけですが、次第に大好きな姉と過ごす時間を奪われていきます。

 

5年前に麻奈が高校2年生だということをふまえると当時の琴乃は小学6年生であると推測できますが、まだまだ遊び盛りで5歳差の姉を慕う描写もあったことから、一緒に過ごす時間が減っていくことはとても気落ちしたことでしょう。

 

さらには周囲には無意識下で姉と比べられ、劣等感もあったに違いありません。麻奈の高校卒業ライブを横目にする琴乃の視線が冷ややかだったことからも、「アイドルの長瀬麻奈」のことを受け入れていなかったのが当時の琴乃でした。

 

そもそも琴乃がアイドルを目指すことを決意したのは、姉を亡くしてから少しタイムラグがあるんですよね。その時間はきっと琴乃に重くのしかかり、様々な感情を覚えたはずで。

だから決断に至るだけの覚悟は十二分に見て取れるわけですが、拒絶反応を見せていた「アイドルの長瀬麻奈」の夢のために階段をのぼり始めた琴乃の想いには胸にくるものがあります。

 

アイドルになっても姉と比較されてしまい、劣化コピーとまで言われるしまうこともありましたが、麻奈の凄さを改めて肌で感じたことは言うまでもないでしょうし、孤独だった琴乃がひとりではなく仲間と共にその道を突き進んでいく姿勢に変わっていくことも相まって、彼女の行く末はしっかりと見届けたい所存です。

 

 

最後に、冒頭に書いた『IDOLY PRIDE』に感じる不安について少しだけ触れますけど、あれほどの謳い文句で展開されている本作に対しては結局のところ「何を魅せてくれるのか」というところでハードルが相当なところまで来ているんですよね。

 

例えば麻奈の身に起きたことを1話に持ってくる興味付けや幽霊となって存在している点などは他作品とは違った色がありますけど、各キャラクターの掘り下げ方やアイドルにかける想いの描き方など物足りなさは確かにあって、ここからどうしていくのかなと。

 

演出面についてはさくらの心臓の件にも感じていて、あれほど直接的な描写ってなんと言いますか、美しさに欠けていて気持ちが入りにくいんですよね。もっと行間を読ませてほしいと言うか。逆にあれがミスリードなのであれば個人的には一気に評価点に変わりますが…果たしてどのように描かれていくのか。

 

と、最後は少しマイナスなことも書きましたが、毎週楽しく観ている『IDOLY PRIDE』。メディアミックス含めて今後も楽しみです。