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映画、アニメ、漫画、音楽などの雑記。ファーストインプレッションを大切に。

『ブラック・ウィドウ』感想/ナターシャの生き方を肯定したのは家族だったということ

当初の予定日からおよそ1年2ヶ月経ってからの『ブラック・ウィドウ』公開。スクリーンにおかえりなさいMCU

 

『エンドゲーム』後のMCUの世界観はドラマシリーズと並行して展開されていくわけだけど、コロナの影響で公開の延期や順番の変更などがあって、『ブラック・ウィドウ』の公開までに3作品のドラマシリーズが配信された。

 

特に『ワンダヴィジョン』と『ファルコン&ウィンター・ソルジャー』は主にワンダ、サムとバッキーが『エンドゲーム』での出来事とその後のヒーローとしての己とどう向き合っていくかというテーマ性が強かったが、しかしドラマゆえの長尺であることも相まって、どのシーンでも感情を大きく揺さぶられるような『エンドゲーム』との落差は否めなかったし(もちろんどれもクオリティが高く十分に楽しめるのだけど)やや肩透かし気味でもあって、だからこそスクリーンでのMCUはおおいに待ち望んだものであった。

 

公開初日に鑑賞して来た。やはりこの規模の作品を観るのは映画館に限る。

 

映像や音響といった環境による要素はもちろん、映画としての尺であるがゆえの収まり具合は物語をグッと引き締めてくれる。

 

※以下ネタバレを含みます

 


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全体的にもまとまりの良い印象は受けた。『インフィニティ・ウォー』と『エンドゲーム』の間の空白期間にナターシャ・ロマノフはどこで何と戦っていたのか。ヒーロー達が決裂した情勢を間接的に説明しながら、『ブラック・ウィドウ』ではナターシャのヒーロー像をダイナミックに時にセンシティブに描く。

 

ナターシャがアベンジャーズの一員として世界を救うことは、贖罪の意味合いが強かった。幼少期からスパイとして訓練を受け、決して許されないようなこともしてきた彼女が、ヒーロー達と交わり、やがて人々を助け役に立ちたいと強い信念を持っていく。

 

そもそもブラック・ウィドウが世界最強のスパイとなった導入は、彼女自身の意思によるものではない。強い愛国心と正義感を持つスティーブ・ロジャースは自ら志願して強靭な肉体を手に入れたし、トニー・スタークは自身の経験と知恵を活かしてアイアンスーツを我が物とした。だが、ナターシャはレッド・ルームでのプログラムを受けさせられたに過ぎず、そこに彼女の意思は一切なかった。

 

だからこそ超人能力を得たきっかけが自身の意思に関係なかったブルース・バナーとは通ずるものがあったのだろうし、己の信念を全うしてその地位を確立していくスティーブやトニーに感じるものもあったに違いない。

 

今作において僕が最も心を動かされたのは、最終決戦前に家族が食卓を囲む一連のシーンだった。

 

およそ20年ぶりに顔を揃えるナターシャ、エレーナ、アレクセイ、メリーナの4人。

 

団欒の時間を明るく豪快に盛り上げようとするアレクセイ。ナターシャの猫背を指摘するメリーナ。久々の再会で男女のやりとりに熱をちらつかせる。そこに見えたのは、長年連れ添った父親と母親のような姿だ。

 

本題を急ごうと苛立ちを見せるナターシャの言葉に対し、思わず声を荒らげ部屋を出ていくエレーナ。その姿を追うアレクセイ。目の前の光景は、不満を漏らす娘とそれをなだめようとする父親ではないか。

 

それぞれが久々の再会だし、どこかピリッとした空気を出してもいたけれど、それでも互いが互いを思いやる心はしっかりと感じ取ることが出来た。そう、このシーンでは既に家族のやりとりがはっきりと描かれている。

 

離ればなれになった後も、それぞれが心のどこかで血の繋がらない家族を想っていた。再会後、20年ほどの長い年月バラバラだった家族が、不器用ながらもさほど時間を要することなく団結できた背景は、そんな互いへの募る想いがあったからだろう。

 

そんな距離感は姉妹間でも見られる。

冒頭、幼少期のナターシャとエレーナが外で元気に遊んでいる様子からして、しっかり者の姉とやんちゃで少し泣き虫な妹というキャラ付けが印象に残る。

 

オハイオからの脱出後レッド・ルームへ戻される際にも妹を守ろうとする姉の勇ましさや卓越した才能が痛いほどに伝わってくる。妹はいつだって姉の1歩後ろを歩いている、そんな印象だ。

 

だからブダペストでの再会もアドバンテージをとったのはナターシャだったし、タスクマスターから逃げ仰せた時もドレイコフの目を欺こうとした時も主体的だったのはナターシャだ。

 

それが主役だからと言うのは簡単かもしれないけれど、MCUらしい過去からの積み重ねが花開かせるようなエモーショナルな演出はやはり心を掴んで放さない。


エレーナを演じるフローレンス・ピューの妹感がとにかく良かった。姉妹の口喧嘩での茶目っ気ある口ぶりや、気を許した時のふとした表情が実に愛らしい。それでいて任務中は意外と大味な言動で少々危なっかしいところも可愛げがあって、隙のないナターシャとの対比がなされていたと思う。

 

物語が進むにつれ、この姉妹が互いに背中を預けながらアベンジャーズとして人々を救っている姿が見られない事実に胸が締め付けられるような想いでもあったし、だからこそドレイコフを追い詰めタスクマスターと対峙した時には2人のバディアクションをもっと見たかったとは思う。

 

ただ、タスクマスターの他者の戦いをコピーするという設定によって、キャプテン・アメリカブラックパンサー、ウィンターソルジャーらの戦闘スタイルを自然と取り入れ、ファンへ目配せもしてしまう構成の上手さは流石の手腕だ。

そして、この設定はそんなファンサービスの意味合いに留まらないのも素晴らしいと思う。

 

ナターシャは人並み外れた身体能力を持つが、人間だ。特殊なスーツを身に纏うことも人外の力を使うわけでもない彼女は、アイアンマンやソーのような派手な戦い方は出来ない。

なので、画面上の都合だけで言えば、超人達に比べるとアクションはどうしたって地味になる。

 

それを補うかのようにタスクマスターのコピー能力は絵面としての華やかさを持たせると共に、立ち向かうナターシャのより高度なアクションを自然と引き出してくれるのだ。

 

常人相手では世界最強のスパイの敵にはならず役不足が否めないが、「ヒーロー達のスタイルを模しているのだからナターシャが互角になるのも無理はない」という口実を作ることに成功している。

 

そして今作では「ナターシャの過去の過ち」が「タスクマスターの誕生」に繋がることが明らかとなり、「事態の収束=タスクマスターに打ち勝つこと=ナターシャが自身の過ちに向き合うこと」という連鎖が見て取れる。

 

そこに「ナターシャは家族という関係性をひとつの理想として思い描いているが、自分の家族には血の繋がりがないこと」と「自分の過ちから1人の少女の人生を奪い、それを兵器として利用するドレイコフに憤りを感じるも当の2人は血縁関係にあること」のやるせなさをドラマとして上手く組み込んでいるのだ。

 

姉妹が母から学んだ、痛みは人を強くするということ。ナターシャは自身の過ちに燃えるような罪悪感を覚え、その痛みを胸に秘め生きてきた。

アントニアを洗脳から解いたことがナターシャの罪からの解放と同等レベルかと言えば個人的にはNOだし、少し腑に落ちていないところでもある。

 

けれど、直接謝ることが出来た事実は意味合いとしては大きく、家族を決別させることを許せないとするその心情が、『エンドゲーム』でのナターシャの最期に繋がったのかもしれない。

 

もしかしたら、サノスの指パッチンでアントニアも消えてしまっていたのかもしれないけれど、ナターシャの決意によって再び生を受けることが出来ていたのなら…贖罪を続けていくナターシャらしい生き方だったと言えるだろう。

 

ナターシャの生き方を肯定してくれたのは、幼い彼女を育てた血の繋がらない両親と妹であり、罪の意識を共に背負ってきたアベンジャーズの面々、そんなかけがえのないふたつの家族。

 

そして、男性による女性の支配を色濃く描いた『ブラック・ウィドウ』において、その構図に真正面から立ち向かっていくナターシャ・ロマノフは、間違いなくヒーローだった。

アメリカン・パイ

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