10versLible

10versLible

映画、アニメ、漫画、音楽などの雑記。ファーストインプレッションを大切に。

アスカの幸せを願うオタクはシンエヴァに何をみるか

f:id:kuh_10:20210106003757j:image

(c)カラー

 

漫画でもアニメでも一生懸命なキャラクターが好きだ。必死に、ひたむきに、がむしゃらなキャラクターが好きだ。そういった熱意というか真っ直ぐさというか、人間らしい芯の部分が見えるキャラクターの輝きというものは、愛すべきものだと思う。

 

僕の中でその最たるものが、惣流・アスカ・ラングレーだ。

何百というアニメ作品に触れ、何千というキャラクターに出会った今になって考えても、アスカという女の子は間違いなく特別な存在になっている。

 

残念ながら公開の延期が再度発表された『シン・エヴァンゲリオン𝄇』。本来ならば最初の延期を経て本日2021年1月23日に公開していたはずだった。公開に向けて尽力されていた方々のことを思うと心が痛む。

 

されど作品の動向には楽しみもあれば怖さもあって、あれだけのスケールで展開され一癖も二癖もある製作陣によって生み出されるキャラクターがとにかく好き勝手にやっているので、どういう終着点であろうとも論争は起きるわけで、誰もが納得するというエンディングはないだろうと思っている。そんな大円団で終わる未来なんて僕には見えないし、正直なところ、もはやアスカが幸せであればそれでいいとすら思っていたりする。

 

とはいえ「アスカの幸せとは何か」を問われた際に、理想の終わり方や具体的なビジョンをあいにく自分の中で持ち合わせていない。

こういったエントリーを記している中で恐縮ではあるが、志半ばで求める未来を閉ざされることなく彼女が本意で選んだ道なのであればそれでいい。そんなふわふわとした想いでしかない。

 

バトルものであればラスボスを倒すことだったり、恋愛ものであれば好きな人と結ばれることだったり、ある程度には明確な目標があるのが従来の道筋なのだろうけど、エヴァという作品群には当然そんな型に嵌ったものは見えていなくて、そこにあるのはかなり抽象的なものだったりする。

 


『シン・エヴァンゲリオン劇場版』本予告・改【公式】

 

旧劇場版『Air/まごころを、君に』では顔面を槍で貫かれ内臓を食い散らかされて、アスカは絶命する。彼女は命を落とすその瞬間まで弐号機とのシンクロをやめられず、もはや痛みを感じているかすら分からないほどに破壊され尽くすまで戦い抜く。あれがバッドエンドだとは思わないけれど、目の前で繰り広げられるあまりにも痛々しい展開に、当時は目を覆いたくなる想いだった。

 

戦うことこそが自らの存在価値だと捉えるアスカからすればあの戦いは足掻きでももがきでもなく、自身の生の意義を全うすることが行動として現れていただけに過ぎないのかもしれない。そういう視点から言えば、見るに堪えないあの悲惨な戦いから僕達は決して目を背けてはいけないと思っているし、あれはアスカの生き方を象徴するシーンだったと言えるだろう。

 

複雑な生い立ちによってエヴァパイロットとして自分の存在感を示しそうとしてきたアスカは、いつだって懸命だった。必死になって使命を全うし、母親からの愛情を求めてきた。その背景を考えると一度命を落とすことになったとは言え、植物人間と化したままより幾分にも良かったと思わずにはいられない。

 

彼女の母親のその後は知っての通りであり、それによる幼いアスカの精神的ダメージは想像を絶するものだろう。母親を失った事実。母親が娘だと思い込んだ人形と心中した事実。目を背けたくなるような現実を胸に、それでもアスカはパイロットとしての英才教育を受け、飛び級で大学を卒業し、成人に混じって職務を全うしていく。その過程が精神的にどれほどの厳しさだったのか…確かなことは、母親を失った後でもアスカは必死だったということ。これもまた、アスカの生きる意味であり意志の強さを裏付ける姿であり、彼女の魅力そのものだ。

 

そんな生い立ちによって生まれた影も、時として光になって映り込む。シンジへの好意も、ミサトへの反感も、加持への憧れも、アスカがトラウマを抱えてもなお懸命に生きる中で抱いた確かな感性から来るものだ。

それは女の子らしく頬を赤らめるような可愛らしさや、さすがは帰国子女だと言わしめる聡明さや、いわゆるツンデレな言動といった見え方となり、僕達の心をこれでもかとくすぐってくる。彼女の抱える問題と時折見せる女の子らしさのギャップは、多くの人を虜にしたに違いない。

 

しかし、彼女の生き様と死に様は表裏一体。生きるために戦うのではなく、戦うために生きる。戦う自分に存在価値を見出し周囲に認められる。戦うことををやめた時それは、彼女の死を意味する。だから精神汚染を受けてレイに助けられた時も死んだ方がマシだと声を荒らげた。そういった観点からも旧劇場版での戦いは、惣流・アスカ・ラングレーここにあり…そう言わしめる最期だったと言えよう。

 

新劇場版では式波・アスカ・ラングレーとして登場した彼女。式波と惣流では性格も多少異なるが、その複雑な生い立ちの設定もなくなっているという点は、彼女の人格形成に与える影響を考慮すると何よりも大きな違いだ。

 

故に式波アスカは加持への憧れや綾波への固執もなく、彼女の持つ影はいくらか薄まったように感じる。良いように捉えるならば、式波は惣流が選ぶことのできなかった運命を辿る可能性を秘めているといえるだろう。

 

だが、残念なことに新劇場版『破』でも彼女の運命は実に悲劇的だ。3号機に搭乗した結果、使徒の侵食を許したことでアスカはエヴァ諸共、初号機によって排除される。生存が確認されたのは『Q』の予告となるわけだが、左目には眼帯、その姿は14歳のまま。背負うものが大きすぎるこの境遇には、涙を禁じ得ない。

 

快活で勝気で自己中心的で、時に年相応に女の子らしく見せてみるアスカは確かに可愛い。帰国子女ということもあって同年代に比べると大人っぽく、高い自尊心で周りに有無を言わせない明瞭な振る舞いは異性として憧れだって抱く。

しかし、それらのアスカの愛らしさがより一層輝くのは彼女が生きることに必死で、譲れないもののために懸命に戦う姿勢があり、その根底にはひとりの女の子としての脆さが内包されているからだ。

 

つまるところ、アスカというキャラクターは酷く歪で儚くて未熟なのだ。脆くて危なげないそのコアの部分を覆うかのように気丈に振る舞っているに過ぎない。そして我々はその根っこの部分を知っているからこそ、己のために戦い生きていくことを選び続けるアスカが輝いて見える。

顔面を槍で貫かれようと内臓を食い散らかされようと身を置くエントリープラグを真っ二つにされようと、彼女は必死に生にしがみつくし、そんな姿に多くの人々が胸を打つ。彼女の魅力はそんな部分にこそ宿っていると思っている。

 

アスカは認められたいが故に戦いにその身を投じるわけだが、彼女の承認欲求はもはやそれ自体が呪いだと言えるだろう。アスカという女の子はいつだって懸命に自分の道を選んで戦い、そして悲惨な運命を辿ってしまう。

 

だが、そんな彼女が最後に世界に選ばれ、愛を求める対象に選ばれるのであればきっとそれはこの上なく幸福であるに違いない。選ばれたいという呪いを、選ばれるという運命でピリオドを打ってほしいと、僕は強く願う。アスカの選ぶ先を度々目撃している身としては、彼女が掴んだ未来がこれまでよりも痛みを伴わず、周囲のより多くの人々に認められ愛される、そんな道のりを歩んでほしいと願わずにはいられない。

 

旧劇場版でのラストでLCLの海から真っ先に帰還したのは他ならぬアスカだった。世界の誰とも違う選択をし、個人としてシンジと並ぶのはアスカだった。

「親からの自立」という作品に内包されたひとつのテーマを鑑みると、ゲンドウから自立したシンジとキョウコから自立したアスカという構図は、始祖であるアダムとリリスから独立を果たす人類とも捉えられるわけであって、親の存在が明確に示されていない(またはその存在を求めることすら出来ない)レイやマリでは担えない役割にアスカはすっぽりと収まっている。

 

赤い海に染まった地球。それが劇場版のポスターではかつての青さを取り戻していることが伺える。

海は生命の源だ。人類の根源だ。エヴァンゲリオンは繰り返しの物語だと庵野さんは言うけれど、海が青かった頃に事態が収束するのであれば、僕の求めるアスカの幸せに近づけるのではないだろうか。そんな世界できっと彼女は愛を求めて一生懸命に生きていけるから。