10versLible

10versLible

映画、アニメ、漫画、音楽などの雑記。ファーストインプレッションを大切に。

映画『五等分の花嫁』感想/描かれる「五つ子の呪縛」からの解放

f:id:kuh_10:20220508003313j:image

(c)春場ねぎ・講談社/映画「五等分の花嫁」製作委員会

 

五つ子であることは、それが恋敵となるや否や「呪縛」になる。

映画『五等分の花嫁』の公開にあたり本作をアニメにて履修したのだけれど、話数を重ねる度にそう思わざるを得なかった。

 

学年1位の学力を誇る主人公の風太郎が落第寸前の五つ子の家庭教師となり勉強を教えていく中で生まれるラブストーリーを描く本作。原作コミックの人気は承知しており、最終話の展開を巡りSNSでは様々な考察や論争が巻き起こっていたことも横目に見ていた。

 

本作は要所で風太郎とヒロインの結婚式のシーンが描かれている。ポイントはそのヒロインが誰なのかが分からないということだ。つまり我々は、「五つ子のうちの誰が風太郎と結婚するのか」という視点を持ち合わせながら作品に触れていくこととなる。

誰がどのタイミングで恋心を抱くのだろう…このシーンが後々の結婚へと繋がるのではないだろうか…そんなことを考えながら、ある種のミステリードラマを見ているような感覚にも陥るわけだ。

 

五つ子は髪型や身に付けるアイテムは違えどそっくりな見た目をしており、結婚式のほんのワンシーンを切り取った程度では花嫁が誰なのか判別ができず、だからこそキャラクターの一挙手一投足に自然と目を凝らしていく。本作は王道のラブコメ路線を突き進みながらも、設定を上手く利用し没入させるだけの巧みさも合わせ持つ。

 

また、五つ子のバラバラな個性は我々にとってのいわゆる「推し」を作る上で重要なキャラクター設計になっている。恋愛モノにおいて、ヒロインの魅力は非常に大切なポイントだ。

どれほどストーリーが秀逸だろうがキャラクターが魅力的でなければそれは物語を動かすための舞台装置にしかならない。主人公とヒロインが結ばれた時の納得感を含んでいないと、それまで積み上げてきた数々のストーリーも無に帰す。

我々は自分にとっての特別なキャラクターがいれば没入感がグッと増し、感情移入を増長させるだろう。実際、友人などと『五等分の花嫁』の話題になった時には真っ先に「五つ子の中で誰が好きなのか」という話にならないだろうか。それはそれぞれのキャラクターに個性があり、魅力がきちんと五等分されている証拠とも言えよう。

 

そんな設定の上手さも持ちつつ、五等分されているのが姉妹の学力にも当てはまるというのが更なる肝の部分だ。勉強が苦手な五姉妹にもそれぞれ得意科目があり、五教科全てを合わせることで一人前の能力になる。逆に言えば、その時点で五つ子は一人前とは言えない存在だと言えるわけである。

 

そのような中で、テストで満点を取る風太郎は自ら収入を得て家計を支える大人、つまり一人前の存在として描かれる。

一方の五つ子は父親のおかげで何不自由なく裕福な生活を送り「5人合わせて100点」をとる未成熟な立場だ。社会的にも人間的にも発展途上な五つ子は風太郎との対比を見せながらもやがてアパートを借り各々が自立していく姿を見せていく。かつては「5人合わせて100点」だった五つ子が一人前になっていく中で「1人で100点」をとれる風太郎に好意を抱くという移り変わりは、少女達が大人の女性としての成長を窺わせる構図となっていて非常に上手い。『五等分の花嫁』は様々な設定を過不足なく活かしている計算高さが実に小気味よいのだ。

 

だが、姉妹の魅力さえもしっかりと五等分されている一方で、「五つ子であるということ」は一花・二乃・三玖・四葉・五月にとって呪縛ともなっていた。

 

アニメ『五等分の花嫁』1期の最終話の時点では、比較的早い段階で風太郎への好意を自覚した三玖に次いで一花と二乃もその胸に恋心を抱くようになった。最初は自分の感情に戸惑いを覚えながらも、3人は自身の膨らむ想いと向き合って行動するようになっていく。風太郎との距離を詰めていく過程で、3人は互いの気持ちを察し、時には自白し、そして徐々にヒートアップしていく。

 

姉妹だからこそ、恋敵の心理が分かってしまう。距離が近いからこそ、物事をはっきり言うことも、逆に1歩を踏み出せなくもなる。顔が似ているからこそ、時には姑息な手段に出ることもある。

そうして繰り広げられていくシスターズウォーでは、恋敵が姉妹であるという「五つ子の呪縛」に雁字搦めになっていく。相手が共に育った姉妹であるがゆえに五つ子の言動は個性が出てくるわけであり、僕達はそこから目が離せなくなるのだろう。

先に述べた「五つ子の呪縛」を自覚しているのは一花・ニ乃・三玖であり、アニメ2期『五等分の花嫁∬』が終了した段階では四葉と五月にはあまりその気がないように描かれる。(五月には多少そのような描写はあれど、3人のように自覚的なセリフなどはない。)

四葉に至っては自分よりも他人を尊重するがあまり自身のやりたいことや欲しいものが分からない始末。だが作品の描かれ方としては零奈としての京都での出会いや林間学校で風太郎の薬指を握るシーンなど四葉がその道をいく伏線もあるわけで、やはり劇場版を前にした段階ではほぼ横一線のように思えた。

 

どこまでが真実でどこまでがミスリードなのかという点もあれど、選ばれるのは1人。残りの4人はどのように立ち回り自身の気持ちと決着をつけるのだろうとそわそわしながらチケットを握り締めて席に着いた僕は、再三述べている作品の旨さを改めて感じた。

失恋をした4人への納得感と僕達への説得力をいかに持たせていくかという部分もなかなかに難しくあるのではないかと思っていたのだが、なるほどこの着地である。

 

風太郎が恋をした相手は四葉だった。正直なところ、他4人への想いだって同じくらい強かったように思える。だからこそ描き方としては風太郎の想いが確信に変わることを直接的にするのではなく、京都での出会いや四葉四葉たる所以といった要素を“運命的に”描写したように感じた。

そこに至るために五つ子はおおよそ辛い出来事に直面するだろうし、作品としては5人全員が笑ってエンディングを迎えられる設計が求められた。

そしてそれは四葉が覚悟を持って向き合い、一花・二乃・三玖・五月それぞれが受け入れるだけの想いと時間を経て決着する。

 

他の4人とキャラクター造形が異なるように思えた四葉は、恋のライバル以前に家族として生きていく上で幼少の頃から既に五つ子の枷を感じていた。だからこそ彼女は京都での出来事を胸に、4人とは違った視点と価値観を持って歳を重ねていく。結果としてその言動が五つ子の転校へと発展させるわけだが、それが「お嫁さん」という夢の第一歩となるのだから、思わず膝を打ってしまった。

風太郎の言葉に対して四葉が考えあぐねて即答しなかったのがエンディングにしっかりと納得感を与え、他の4人にもその配慮がされている。そして何より、四葉風太郎とこれからの人生を共に歩んでいくことに対する重みを感じさせるだけの尺がこの映画には必要だった。その上で136分という長尺ですらやや急ぎ足の部分はあったものの納得感を含ませる上では十分まとまった印象だ。

 

京都の約束が互いを引き合わせ、四葉に至ってはそれが人格すら変えさせたわけだが、そんな姿に風太郎は惹かれていく。四葉本人が負い目に感じていたことも全てが結ばれるために必要だったことなのだろう。

 

本作のラストは風太郎と四葉の決断から5年後の結婚式が描かれる。

この5年間、風太郎と五つ子は一体どのような時間を過ごしていたのだろう。特に、五つ子。女優として日の目を浴びる一花は、自身の気持ちに実直に突き進んだ二乃は、恋から将来やりたいことを見つけた三玖は、大好きな母と同じ道を自分の意思で目指した五月は。そして自分に少し正直になった四葉は。文化祭の後それぞれの恋心とどう向き合ったのだろうか。

それらは映画では描かれなかったけれど、きっと涙した女の子だっていたことだろう。恋した異性の好きな人が自分の姉妹であるがゆえに渦巻く悔しさや羨みといった感情だって生まれたに違いない。

それでも各々が風太郎ときちんと向き合い、自身の気持ちにけじめをつけて、また道を歩み出す強さが五つ子にはあった。もうかつてのように学力すら五等分の未熟な女の子ではない。夢に向かって歩いて行ける存在になり、恋をした/恋に敗れたって自分達の力で「五つ子の呪縛」から解放されたのだ。

それを助けた風太郎は家庭教師として、1人の男として、五つ子を導いた。そして彼自身、「5人の中で自分と人生を歩む相手は誰なのか」という“難問”を解き明かしたわけだ。

 

これだけ積み上げられた関係性があれば、きっと五つ子は幸せだろう。四葉を祝福できる4人にだって溢れんばかりの愛を注げる人を見つけてほしいと切に願わずにはいられない。

そして胸の秘めごとを隠しながら生活してきた四葉がそのままの状態にならなかったことにとにかく安堵している。彼女には今後もやりたいことはやりたい、やりたくないことはやりたくないとハッキリ言える女性になってほしい。それが出来たのが告白に対して正直になった、「花嫁」になる第一歩だったのだ。

 

五等分の花嫁~ありがとうの花~

五等分の花嫁~ありがとうの花~