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映画、アニメ、漫画、音楽などの雑記。ファーストインプレッションを大切に。

『劇場版 SHIROBAKO』で宮森がヨーソローする姿に同世代として感銘を受けずにはいられない

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先週のことにはなるが、劇場版『SHIROBAKO』を観てきた。

テレビシリーズを見返して学生時代の放送当時に胸を熱くしていたことを思い出しつつ、社会人としてキャリアを積んでいる最中の現在だと見方の幅が広がったことを実感する。自身が働く者として作中の人物達と同じ立場になったことで、より感情を揺さぶられた。

 

先日も少し書いたのだが、業種は違えど僕も進行としての経験があるので、宮森の置かれる立場や状況がよく分かってしまうのだ。

なので今回は劇場版を通して前進していく宮森の姿に感じたことを主に、感想として残していきたい。

 

kuh-10.hatenablog.com

 

公開を待ち遠しく思っていたので、公開直前まで制作に追われていたスタッフ陣には賞賛をおくりたいです。

 

 

 

そんな劇場版の大筋としてはテレビシリーズを踏襲していながら、だからこそ対照的な部分も際立っていて。多くの登場人物がいる中でも、本作においてはどうしたって、主人公・宮森あおいの苦節を乗り越えていく成長の様が心に響いた。

 

宮森と高校のアニメーション同好会で共に過ごした面々は、それぞれの夢に向かって奮闘する日々。宮森が入社した武蔵野アニメーションで彼女を支えながらも一緒に苦難を乗り越えていくスタッフ陣も個性豊かだ。

 

社外であろうとも密接に関わるメンツも多く、歯車がひとつ狂うだけでスケジュールに大きく支障をきたす、そんなアニメ制作のいつだって綱渡りな状況で伴う人々の心労の繊細さ。それらを登場人物、制作されたアニメキャラ、宮森の心情表現と視聴者への状況説明の役割を担うミムジーとロロの言動で時にダイナミックに時に儚げに描かれる様は、テレビシリーズからしっかりと受け継がれている。紛れもなく僕の好きな『SHIROBAKO』の群像劇の世界観だ。

 

しかし、劇場版では冒頭から絶望的な局面を目の当たりにする。擦り傷が目立ち、ろくに洗車もしていないのが分かるムサニの営業車。開始早々テレビシリーズのように快速を飛ばしてくれるのかと思いきや、ムサニの現状を表わすかのように無惨にエンストしてしまう。壁に這う草木や蔦が無法状態となったオフィスに戻るも、残る人はほとんどいない。

 

小笠原さんや井口さん、絵麻までもが、フリーに転身しているアニメーター陣。タロー、平岡、安藤ら制作進行陣も退社。更には丸川社長がその座を退いている。テレビシリーズからは考えられないほどに、布陣が変わっていた。いや、布陣が変わるどころか、単純に人がいなくなっているのである。

えくそだすっ!』『第三飛行少女隊』の制作を経て大きく前進したことだろうと予想していたムサニは、後に「タイマス事変」と呼ばれる事件によって目も当てられない惨状であり、冒頭ではそれを痛いほどに心に突き刺してくる描写が続く。それは、直前まで見返していたテレビシリーズで明るい希望を持って終わっていたのを見ていた僕にはとてつもなく辛いものだった。

 

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(C)2020劇場版「SHIROBAKO」製作委員会

 

中でも、劇中で宮森が丸川元社長の店でカレーを口にしムサニのあの頃を思って涙を流すシーンは本当に苦しかったし、彼女と同じように思わず涙してしまった。心に留めていた行き場のない感情が、ふとしたことで弾けてしまったような宮森。元社長が食べさせてくれた味は、間違いなくあの頃に戻りたいと思わせたはずだ。同時に、ひとりのクリエイターとしての元社長の助言は、アニメ制作を楽しいと感じなくなってしまっている宮森には今一度立ち直るきっかけになったことだろう。

それが繋がっていくのが、あのミュージカルシーン。辛く苦しい現実に直面しても、それでもやるしかないのだと、宮森が自らを鼓舞して前を向いていくのだ。

 

ミュージカル演出はアニメ作品だろうが実写作品だろうが物語の流れを中断してしまうことにも繋がる。作品全体としてのテンポを落としかねない。しかし、本作においてのミュージカルシーンは宮森が立ち上がる起点として描かれている「リスタート」の意味合いが強い。一度立ち止まって気持ち新たに進んでいくことを「それでもやるしかない」のだと、芯のあるメッセージと共に放ってくれるあの一連の流れは、ミュージカル演出だからこそ効果的にメリハリを持たせてくれたように思う。

 

さらにそのミュージカルシーンでは、宮森の感情を吐露する代弁者ミムジーとロロ、制作に携わった『えくそだすっ!』『第三飛行少女隊』とその後制作していたであろう登場キャラクター達、さらには彼女の支えと業界に飛び込むきっかけのひとつとして位置付けられる『アンデスチャッキー』が登場する。

このシーンにおける『アンデスチャッキー』の存在は特に重要で、「自分に元気や勇気をくれる大切な作品が、現実世界において己が立ち上がる決意の原動力となる」ことを示すという、“アニメを愛する全ての人々の視点”にも繋がっているわけだ。さすが『SHIROBAKO』、懐が深くもあり、また水島監督のメッセージが息づいている実に素敵な表現だといえる。

 

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(C)2020劇場版「SHIROBAKO」製作委員会

 

そして宮森に決意をもたらせたことが、『空中強襲揚陸艦SIVA』のラストをも変える展開へと繋がっていく。この「宮森らの強い想いが作中での制作アニメに投影される様を第三者視点で見られること」も、『SHIROBAKO』の大きな魅力だ。

 

絶望的な状況の中で持ち込まれた劇場アニメーション制作の企画。この話を動かすべく、マンパワー不足のムサニはかつてのスタッフ陣をあたっていく。他の仕事との兼ね合いで全てが丸くとはいかないまでも、頓挫してしまった作品のトラウマを乗り越えてあの頃のスタッフらが集まりひとつの作品を共に作り上げていく様には、どうしたって胸が来るものがある。

 

さらには苦節を乗り越えた宮森が、やっとの思いで納品まで行き着いた『空中強襲揚陸艦SIVA』のラストを作り直そうと提案したことで自らの殻をまたひとつ破ったことは明白だった。

劇中では幾度となくバッドエンドにすると言われていた『空中強襲揚陸艦SIVA』。しかし、ラストの出来に十分満足していない監督の様子を察知した宮森が、少し異なる展開へと進めようと進言したことで、作中のメインキャラクターの生存も考えられる内容へと変わったではないか。次があるかもしれないという含みを持たせて作品を終わらせている。これはつまり、窮地に立たされているムサニが現状を打破し、希望を見出していることを表しているわけで、余韻を持たせてくれる。

 

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(C)2020劇場版「SHIROBAKO」製作委員会

 

ラストを作り直す様子をあえて描かず、1アニメとして見せてくれる味わい深さよ。テレビシリーズでも見られた演出だったが、劇場版としてのカタルシスも感じさせてくれるシーンだ。

 

公開日、宮森達はいつもの5人で映画館へ。手にしたドーナツの間から見えるのはスクリーンに広がる宇宙。ひとつの夢を叶えた5人が、かつて高校の屋上で空に向かって掲げていたよりも更に上の、宇宙空間を見つめるその姿はすごく感動的で。

個人的にここのところ忙しくしていたこともあり、自分もやるしかないと奮い立たせてくれた。宮森にとって『アンデスチャッキー』がきっかけのひとつとなったように、僕にとって『SHIROBAKO』も今後の活力になることだろう。

劇場版公開を前に『SHIROBAKO』を見返して感じた、仕事に情熱を燃やす人の美しさ

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劇場版の公開を前に『SHIROBAKO』を見返したのだけれど、当時テレビ放送をしていた頃と自分の見方がまるで変わっていて驚いた。

 

放送当時は本作の主人公・宮森あおいが武蔵野アニメーションの制作進行として作品を完成させるまでの目まぐるしい展開に一喜一憂していたことを鮮明に覚えている。

ある種メタ目線で描かれるアニメ制作の模様に目を丸くし、これまで自分が当たり前のように見ていたアニメもこれだけの工程を経て出来上がるのかと感嘆した。業界の過酷さは様々な声を聞いていたが、これほどまでなのかと。多忙かつ余裕のない制作陣の奮闘にドギマギしながらも、その苦難をどう乗り切っていくのだろうと毎週楽しみに見ていた。

 

しかしながら、1週間ほど前からシリーズを見返し始めた時には、1話からそわそわしてとにかく落ち着かない。放送当時のようにワクワク感だけで満たされるような感覚はなく、心無しか呼吸が早くなる。以前まで楽しく見ていた作品が、見ることに少しカロリーを使うようになっている。

 

冒頭から進行の手違いやサーバートラブルによりアニメの納品に危機が訪れ、思いつく限りの代替案も潰れ万策尽きていく宮森の精神的な疲弊がこちらにもビンビン伝わる。休みの日に見ていたって、場面によっては仕事に駆り出されているような感覚に陥る。

 

そしてその理由に行き着くのに時間はかからなかった。間違いなく、放送時に大学生だった自分が現在社会人になって作品を見ているからである。業務遂行の過程で一難去ってまた一難という状況は、痛いほど分かるのだ。

 

というのも、僕もアニメ業界とは異なるが、広告関係において進行役を経験している。打合せ、日程調整、ヒアリングや取材、原稿作成、初稿、校了…などなど、納品に向けて舵を取りながら進行していく。当然、予定通りに進まないことだって多々あるが、出来る限り円滑にまとまるようにコントロールし対応していくわけだ。

 

それぞれの締切を把握した上で関係各所に伝達やリマインドをする分にはスケジュールの逆算だ。これは、打合せから納品への各日程を理解し、見落としさえなければ難しくはない。

進行の難しいところのひとつは、関わる窓口の人間の性格が違ってくる点である。『SHIROBAKO』でもその様子が明確に描かれており、広義ではあるが近しい職種を経験する身としては分かる分かると頷きながらも思わず頭を抱えずにはいられない。

 

3話でカッティングのあがりについて矢野から聞かれた宮森。担当者に電話した時はやってますと言っていたので大丈夫だろうと思っている宮森に対して「あの人の『やってます』と『あとちょっとです』は信用するな」と当然のようにアドバイスする矢野。

締切に対してやけに悠長な人、いますよね…。たまに時間の概念がおかしい人、いますよね…。

そういう人に対しては締切を前倒して伝えたり、進捗を随時確認したり、あがってくる時間を決めさせて釘を刺しておいたりしなければならない。十分すぎるほどに念押しをしておかないと、締切直前に身動きが取れなくなることもざらだ。一度言ったくらいでは次回同じような案件が降ってきた際に活かせない人はごまんといる。

 

締切の重要性を理解していない人に対しては、しつこいくらいがちょうど良い。こちらからお尻を叩いてあげなければ後々苦しくなってしまうのは自分だ。急な対応に追われるだけでなく、関わる人々にもしわ寄せがいき迷惑がかかる。

 

また、ひとつの案件を進行として管理していく中で、複数の人を介したり垣根を超えたりすると見えてくる伝達のズレも、どうしたって出てきてしまう。

5話で爆発シーンを手描きでいくか3DCGでいくか、ムサニ内で揉める描写がある。作画班とCG班それぞれにその場しのぎのやりとりをする高梨は現場を収拾できなくなっていくのだが、こういうことって往々にして発生していることだよなぁと。

A社はあぁ言っている。B社はこう言っていたらしい。C社に確認したら、どちらでもない。一見おかしなことだが、不安材料を手にしたまま事が運んでいるとやはり遭遇したことのある状況なのだ。だからこそ、特に締切が迫っている物事に対しては状況整理をして自分の中に落とし込む必要がある。

 

とはいえ、スピード感ばかり気にしていてもいいわけではなくクオリティを保つ必要があるのも事実。締切はあくまでもマスト。その中で届ける先へ満足のいくものを提供することが課せられた使命である。

工数を重ねる中で水準を下回ると発生するトライアンドエラー。作画やアニメーションに、声や演技や音響の質、これらが各専門のプロによってひとつにまとめられていく過程で、より良いものを追及していけば修正が発生することだってやむを得ない。そんな時はリテイクの量やそれを実現する人員とスケジュールを見直した上で、人々を動かしていく必要がある。それがイレギュラーの対応でも、動かすべき人々に的確に指示を出して、飴と鞭を使っていく力量が進行には求められる。

 

社会人としての基礎から業界ならではの苦労が垣間見える日常を経て、ひとつの作品の完成に向かって走っていく宮森あおい。彼女を取り巻く環境とステップアップさせてくれる周囲の人々。その全てが『SHIROBAKO』というアニメ作品を彩り、見ている我々に活力を与えてくれる。

 

現代社会において人が生きる上で避けることのできない「働くこと」とどう向き合うかを、改めて考えさせられた。まだまだ若輩者ではあるが、『劇場版 SHIROBAKO』は自分が社会人として過ごした数年とこれからを見つめる機会を与えてくれるだろう。そんな期待に胸を膨らませながら、今日も元気に残業している。

久しくアニポケを観ていない人にこそ新シリーズを観てほしい

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2019年11月よりアニポケの新シリーズが始まった。

所々で原点回帰している様を見せながらもポケモンの歴史を経ても失われることのない「新しさ」が詰まった物語に、毎週圧倒されている。

 

Nintendo Switch用ソフト『ポケットモンスター ソード・シールド』の発売から2日後に放送スタートとなった本シリーズ。サトシと相棒ピカチュウが新たな仲間やポケモンとの出会いを通して成長していく姿を描いていく。

 

そんな新シリーズは1話1話がしっかりと心に残る良質なストーリーばかりで、シンプルに面白いと断言できる。そしてこれまでポケモンに触れてきた人であればより心を動かされるような、懐の深いポイントが詰まっている。

ちょうど1クール分12話までが放送されたが、決して熱量が下がることはなく、むしろそれを許さない入念な作り込み。前シリーズ『サン&ムーン』では独特のキャラデザとギャグテイストの強い作風との相性の悪さを強く感じていたため、今作の出来には喜びが大きい。気持ち冷めぬままに、簡単にではあるが感想を残していきたい。

 

今回のシリーズの素晴らしさは何と言っても、「まだ見ぬ世界へ足を踏み入れるサトシとゴウが感じるドキドキやワクワクが視聴者にリンクすること」だと思っている。

そしてそれは、新たな地方を旅してこれまで見たことのないポケモンと出会いを重ねた“ゲームにのめり込んだあの頃”を多分に思い出させてくれるのだ。

 

新シリーズではお馴染みのサトシと並び、ゴウという男の子がダブル主人公として登場する。

既にピカチュウという相棒を従え、ある程度の経験はあるサトシとは違い、ゴウはポケモンを持たず旅の経験もない。そんな彼は行く先々で出会うポケモンの姿に目を輝かせ、喜びの表情を浮かべる。

 

やがてモンスターボールを手にし、ポケモンの捕獲に挑戦していくゴウ。行動を起こせず考えあぐねてしまうような局面でも、サトシの助言や後押しで少しずつ道を切り開いていく。ポケモンと共存する世界で徐々に経験を重ねていくそんなゴウの生き生きとした姿には、ゲームに熱中した自分自身を重ねずにはいられない。

 

ポケモンと接するという点において同世代より一歩先を行くサトシに安心感を覚えつつ、対するゴウの初々しさたるや。言うなればサトシはゴウをポケモンの世界へと誘うナビゲーター的な役割も担っている。その中でゴウが新たな土地への足を踏み入れることのドキドキ感や、見たことのないポケモンとの出会うワクワク感を描いているのは本シリーズの特徴のひとつだろう。

 

まだ見ぬポケモンが出てくるのではないかと期待しながら草むらに飛び込み、新たな街や村を訪れては住宅や施設を探索する。場面ごとにBGMが変わり、ポケモンの持つ世界観へと没入させてくれる。時には波に乗り、時には木を揺らし、時にはタマゴを温めた先で出会うポケモンに興奮したあの頃。

ゴウは紛れもなく、我々視聴者の経験してきたポケモンのゲームの思い出を体現している。

初のダブル主人公を採用したことによる化学反応は予想を上回るほどの相乗効果を生み出しているのだ。

 

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また、これまでのシリーズを彷彿とさせるようなサービス精神も見受けられる。ゲームやアニメのシリーズを通して育ってきた世代が大人になって子供ができるくらいの歴史を持つポケモンだからこそ実現する幅広い世代へのアプローチをとことん突き詰める製作陣の姿勢がひたすらに貫かれている。

 

例えば本シリーズではサトシとピカチュウとの出会いから始まり、サトシのママやその相棒バリヤードオーキド博士も登場する。すっかりおなじみとなったサトシの寝坊シーンも忘れずサービスしてくれる心意気。

 

また、これまではゲーム最新作の舞台となる地方の物語がアニメとしても更新されてきたわけだが、本シリーズについては『ソード・シールド』のガラル地方を舞台としていない。サトシとゴウが住まうサクラギ研究所はカントー地方のクチバシティにあり、そこから各地方に出向いてポケモンの生態を調査するという基盤で物語が進んでいく。

 

エピソード0の位置付けで放送された1話「ピカチュウ誕生!」はサトシのピカチュウがまだピチューだった時の一幕という、これまで描かれていなかった頃の話だった。まさに無印のポケモン世代ですら見たことのない、しかしとてつもなく見てみたい、そんな絶妙な塩梅のストーリーである。

 

実際1話の出来栄えは、表面上のあらすじに見劣りしない素晴らしいものだった。

仲間がいなかったピチューの苦悩やそこから進化に至るまでの過程は、今のピカチュウを知るからこそ得られる感動があった。当然のように幅広い世代の涙を誘ってトレンド入りを果たしたのも納得である。

 

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そんな1話の予告では次週の予告が流れるわけだが、そこに姿を現すのは伝説のポケモン、ルギアだ。感動の物語に畳みかけるように、いきなりサービスが過ぎる。

 

2話の「サトシとゴウ、ルギアでゴー!」では、ルギアの出現を予測したサトシとゴウがクチバシティで出会いを果たす。

 

現れたルギアに飛び乗るサトシとピカチュウそしてゴウは、空を海を縦横無尽に駆け巡る。雲よりも高く舞ったと思えば、急降下して海の中へ。彼らを取り巻く野生ポケモンも飛行タイプに水タイプに様々。

ポケモンの生態を伝説のポケモンに乗って見渡すという初めてだらけの体験に興奮するサトシ達の感情が、声と画を通してまるでジェットコースターに乗っているのように臨場感いっぱいに伝わる。

 

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ルギアの対として忘れることの出来ないホウオウもしっかりと出番を見せてくれる。

9話の「あの日の誓い!ジョウト地方のホウオウ伝説!!」ではホウオウの目撃情報を元にサトシとゴウはジョウト地方へ。長年ホウオウを追ってきた老人と孫がその姿を一目見ようという諦めかけていた夢を再び取り戻していく様は、心にグッとくる構成で。

伝説のポケモンのバーゲンセールなどでは決してなく、それを元にひとりひとりの想いや物語があるのだと教えてくれる、素敵な仕上がりなのだ。

 

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また、伝説のポケモンに関するエピソードを散りばめながら、『ソード・シールド』での新要素も忘れない。

 

12話「ダイマックスバトル!最強王者ダンデ!!」ではカントー地方チーターことワタルと、ガラル地方のチャンピオン・ダンデがリーグ戦で激突する。

お馴染みのチャンピオンと新地方のチャンピオンによるバトルは、ダイマックスやキョダイマックスを用いての迫力ある描写の数々だ。しかし、よく考えてみるとリーグ戦においてチャンピオン同士が対決するという構図は、シリーズ終盤で描かれるのが常。それを12話というタイミングで大迫力のバトルと共に届けてくれるのだ。伝説ポケモンの登場や新シリーズの要素を惜しみなく且つバランス良く放ってくれる喜びといったら。

 

さらには楽曲へのこだわりも存分に感じられるから嬉しいことこの上ない。

 

OPの『1・2・3』を担当するのは、そらる・まふまふによるユニットAfter the Rain

疾走感がありながら子供達も馴染めるようなキャッチーな部分も兼ね備える。イントロがゲームボーイの起動音で始まるところや、サビでモンスターボールが開く音が入っているところなんかも芸が細かく、ポイントが高い。

 

いわゆる歌い手界隈で彼らの名前は知っていたものの、その起用は若いターゲット層への狙いを差し引いても、納得の出来映えだ。

色鮮やかな映像がポップで、サトシ達を踊らせるダンサブルな一面もあり、のっけから上げてくれる。

 

EDの『ポケモンしりとり(ピカチュウ→ミュウ Ver.)』はタイトルの通り、ポケモンの名前でしりとりをしていく。

大人でもそうなのだから、子供達も自然と自分の中でしりとりをしてしまうであろうこの1曲。かつてのED『ポケモン言えるかな?』をどこか彷彿とさせるようなコンセプトが見え隠れするのは実に爽快だ。

 

懐かしのシチュエーションを感じさせつつ、明らかに新たな展開を見せてくれる本シリーズ。ポケモンで育ってきた身だからこそ、シリーズのプロットには感嘆するばかりだ。それでいて多種多様なポケモンの登場や目まぐるしく展開されるストーリーには、子供達も前のめりになることは間違いないことだろう。

 

新シリーズ『ポケットモンスター』には、製作陣のこだわりがとことん息付いている。

『ストレンジャー・シングス』感想/友達は嘘をつかないし世界中での人気も嘘をつかない

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©NETFLIX

 

日本にも人気の波が定期的に押し寄せてくる海外ドラマ。『フルハウス』や『24 -Twenty Four-』、『ゲーム・オブ・スローンズ』など根強い人気を誇る作品は、本編を観ていなくとも名前くらいは知っているという人も多いのではないだろうか。

 

今でこそリアルタイムで追っている作品はほぼなくなっているが、僕もテレビにかじりつくように海外ドラマを観ていた時期があった。

きっかけは『LOST』という作品。飛行機の墜落によって無人島に漂流した生存者達が生き残りをかけてサバイバルを行う中で、島の謎や登場人物達の過去の繋がりが徐々に明らかになっていくスリル満点のサスペンスドラマだ。

 

そんな物語は、色鮮やかな海や山々など自然豊かな環境と、食料や武器を巡る生存者の間に見え隠れする心理描写の相反するバランスが実に見事だった。訳が分からないことが次から次へと巻き起こり、小さな伏線すらきちんと回収して何度だって驚かされる。未知なる世界観を描く上手さが実に際立ちどんどん観てしまう。

外国はドラマでも映画のような壮大な規模でこれほどまでに面白い作品を放送しているのかと驚愕してしまった。

 

それからというもの、気になる作品はひとまず手に取ってみるようになった。悪魔や幽霊、怪物などの超常的存在を狩る兄弟の戦いを描く『スーパーナチュラル』、殺人の罪で服役する兄の無実を信じて刑務所に入った弟の脱獄計画をスリリングに展開する『プリズン・ブレイク』、ゾンビに溢れた荒廃した世界でのヒューマンドラマ『ウォーキング・デッド』などなど…。

中でも、未来予知や空中飛行など超能力を持った人間達が表世界でその力を隠しながらも次第に交錯していく『HEROES/ヒーローズ』は特にお気に入りの1作だ。

 

どの作品もドラマとは思えない壮大なストーリーだというのに、1話およそ45分でそれを1シーズン展開してくれる。1話完結型のドラマもあれば、終盤にとんでもないどんでん返しを持ってきて次回の引きを際立たせるドラマもある。大ヒットを飛ばし本数にして10シリーズ前後となる作品だって少なくはない。先が全く読めず、やめどきが分からなくなる。まさに「海外ドラマにハマったら寝られなくなる」を体感する。

話題作ばかりを選んで観てきたということもあるだろうが、僕の中での海外ドラマの印象は「とにかく夢中にさせてくれるコンテンツ」なのだ。

 

ストレンジャー・シングス 未知の世界』も世界中で社会現象的ヒットを記録しているらしいことは耳にはしていた。Netflixオリジナル作品として展開される本作はとにかく面白く、今ではNetflixの看板作品だと聞く。

 

そのうち観ようと思い月日が経っていたが、先日ふと思い立って現時点での最新シリーズまで鑑賞したので、少々前置きが長くなってしまったがネタバレを控える形で簡単に感想を書いていきたい。

 

 

 

ある日起こった少年失踪事件と、突然現れた超能力を持つ謎の少女。見え隠れする不可解な研究所の存在。事件とはほとんど無縁な小さな田舎町を舞台に、次々と謎が謎を呼ぶ中で事件に巻き込まれた人々は未知なる存在に気付いていく…。

 

そんなあらすじとなっている本作は他作品においてどこか見覚えのあるシーンや設定が目立つ点は否定できないのだが、1週間もかからない内にシーズン3まで観終えてしまった。既視感が嫌悪感に変わらない、むしろ妙な中毒性がある。そんな確かな面白さが僕をテレビの前から離さない。なるほど、やはり世界中での人気も頷ける。

 

その要因のひとつは、時代設定にあるだろう。

舞台は1980年代のアメリカ。劇中のBGMや街並み、ファッションなど80年代ミュージックやカルチャーがとにかくキマッている。青年の髪型ひとつとっても、襟足を長めに残しながらサイドは耳にきちんとかけ前髪は流しながらスプレーでしっかり作り上げる、そんな当時の流行に気付くことができると同時に、時代を感じさせながら“ちゃんとかっこいい”。

様々なポップカルチャーを元にしつつ古臭さを露見させない絶妙なクールさがあり、その魅せ方が本作の味になっている。

 

時代背景はストーリー内の溢れるスリルもきちんと演出する。携帯電話がないため離れた仲間と容易に連絡が取れない。トランシーバーや固定電話を使用するも、その繋がりは不確実だ。それ故に時には各キャラクターが分断される。これが物語全体の不安を煽り、レトロな背景が不気味な雰囲気を更に自然に醸し出す。それが少しずつひとつの終着点に向かっていくのだから、痛快である。

 

また、作品の魅力として何より忘れてはいけないのが、登場人物らの年齢の幅広さだ。

中学校に通う仲良し4人組にその兄や姉、彼らの親やその友人の警察署長など、主要人物の世代は違っており、その融和が面白おかしい。

子供達が年相応に無邪気な会話をしているかと思えば、対する両親世代はしみじみと昔を懐かしむ。思春期の男の子達が女の子にドギマギしているかと思えば、女の子達は余裕を見せ男の子達の1歩先を行く。世代を感じるそれぞれのやりとりが、劇中のポップな部分を強調して良いスパイスになっている。

 

登場人物らは皆が皆、非常に魅力的だ。マイク、ウィル、ダスティン、ルーカスはいつも一緒にいる仲良し4人組。スパイごっこの延長のようなトランシーバーでのやりとりや未知の存在に遭遇した際のネーミングセンスなどは、本作の色がとても濃く映し出されていると感じる。幼さ残る彼らの言動は時に緊迫感を含むが、大人への階段を上る途中にいる彼らの豊かな感性で謎に迫る姿には少しずつ成長を感じ、何とも胸が熱くなる。彼らが個々のアイデンティティーを形成し、認知していく過程を見られる喜びも絶大だ。

 

高校生組のナンシー、ジョナサン、スティーブらも本当に頼もしい。弟世代と親世代の間の年齢である彼らはマイク達を先導しながら期待を裏切らない勇気ある活躍をしてくれる。一方で年相応に青春物語の風を吹かせてくれるから、隅に置けない存在だといえる。

 

もちろん、ウィルとジョナサンの母ジョイスや警察署長ホッパーもなくてはならない物語の一員である。やはりどうしたって、精神的支柱は彼らになる。大人が子供を想う気持ちはやっぱり眩しく愛おしい。

 

話題作であるが故に肩肘張って観始めたわけだが、すぐに世界観に引き込まれてしまった。

E.T.』、『IT/イット』、『グーニーズ』などのオマージュを感じさせる設定もあれば、実際に当時流行していた映画が作中で上映されるといったシーンも。少年らが『ゴースト・バスターズ』や『X-MEN』に夢中な様子も伺える。

まだ幼い彼らの立ち振る舞いに自分の子供の頃と重ね合わせてみたり、大人になった今の視点で一歩引いて微笑ましく見てみたり。タイムスリップして彼らと共に冒険しているような錯覚もあれば、当時のことをあれこれ考えては発見があったりと、気付いた時にはどっぷりだ。

 

今後の展開も非常に楽しみである。あのキャラクターがどうなるとか、人間関係に変化がありそうだとか、ストーリーの方向性が読めないだとか。何があってもおかしくはないという期待は海外ドラマにおいて持っていて良い感情だ。

 

あとは例えば、とあるシーンや設定が御産や性を感じさせたりと「生命」の暗喩のようにも思えたりして引っかかっているが、未知のことだらけであるため何とでも言えるのかもしれない。そういう物語全体としての疑念も、どこかに着地してくれたらとても嬉しい。

 

既視と未知の世界の共存を成立させる巧みさ。

80年代という「現代人にとっての過去」と作品内の「未知の世界」の裏表の不思議な関係性に、役者陣とキャラクター像の魅力がこれでもかと弾けている。既視感があるのにこれほどの面白さがある理由はそんなシンプルなところにあるのかもしれない。

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』感じたのはフォースではなく、大人気作品が受け入れ難い展開をしてしまう悔しさだったという話

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僕の中で『スター・ウォーズ』シリーズというと、映画界における帝王の位置付けにあたる。それは世界中での圧倒的な人気っぷりやファンの持つとてつもない熱量、それを証明する桁違いの興行収入など、様々な要因によるものであり、小さい頃からのイメージでもあっただろう。しかし、自らのお金で素敵な作品に出会おうと意識的に映画館へ出向くようになってからも、そのイメージはまるで覆らない。むしろ映画の鑑賞数を増やせば増やすほど、映画の世界を知れば知るほど、むしろ帝王としての捉え方は強固なものとなっていると言える。

 

エピソード4〜6の旧三部作は子供の頃にテレビの再放送でよく観たし、エピソード1〜3の新三部作は父に連れられ映画館に足を運んだ記憶がある。(当時の年齢でストーリーをきちんと理解していたのかというと非常に怪しいが。)

そんな作品がエピソード7〜9の続三部作としてスクリーンに帰ってくると聞いた日には、僕ですら歓喜したものなのだから、より上の世代からしたらとてつもない喜びだったと想像する。エピソード1〜6の蛇足としかならない怖さよりも、またあの世界観に浸れる喜びや、権利を持ったディズニーがどのような手法で我々を楽しませてくれるのかという期待の方が圧倒的に上回っていた。現代のテーマをいかに作品に落とし込み、発信されるのかというまだ見ぬ物語への期待は膨らむだかりだ。それだけの高い期待値を設定してしまうほどに、スター・ウォーズの評価は高いものだった。

 

2015年、エピソード7にあたる『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』が満を持して公開となったわけだが、結果として多くのファンを魅了し、興行収入の観点から見ても大成功と言える数字を記録した。シリーズではおなじみのライトセーバーやフォースを用いてのアクションはもちろん、過去作を彷彿とさせるエモーショナル溢れるシーンを散りばめながらも、同時に新たな主要登場人物を魅力的に描いていく。

遠い昔、遥か彼方の銀河系でスカイウォーカーを主人公としてきたシリーズにおいて、血縁が謎に包まれるレイに主軸を置く。そこにはファンを唸らせるサービス精神と、真新しさを追求するチャレンジ精神が混在する。シリーズを再出発させる「意義」が感じられる1作に、ただただ感嘆した。

 

しかし、2017年に公開となったエピソード8『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』ではキャラクターの扱いや風呂敷を広げすぎた展開などからファンの間では賛否両論が飛び交うこととなる。世界が注目するシリーズともなれば批判が出てくることはどうしたって避けて通れないわけだが、この問題はルーク・スカイウォーカーを演じるマーク・ハミルからも「もうルークの物語ではない」などと厳しい声も出るまでに発展するなど、公開直後は燃えに燃えた。前述の通り、僕にとって本シリーズは映画界の帝王だ。シェアード・ワールドとして興行収入では『アベンジャーズ』シリーズ(MCU)の追随を許せど、自分の中でトップオブトップの位置付けの作品に多くの批判が集まるのは心が痛んだ。だが、それは今思えば「残り1作で帝王たる所以を見せつけてくれるだろう」という楽観的な考えがあったからかもしれない。

とにかく、物議を醸した前作への疑念を振り切る意味でも、スピンオフ作品を含め久しぶりに全シリーズを見直した上で、『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』の鑑賞チケットを握り映画館の席に着席した。何なら12月は思いのほか忙しかったこともあってシリーズを見返す予定がかなり遅れてしまい、上映が始まる5分程前までは『最後のジェダイ』を観ていた始末だ。しかし、完結編を最大限に楽しむために余念はない。大作の終焉を目の当たりにするのだと意気込んでいた。

 

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©2019 Lucasfilm Ltd. All Rights Reserved.

 

そして、鑑賞後の煮え切らない感じ。完結編でありながらカタルシスに欠ける辛さ。

うまくまとめあげたと思う。シリーズ作品だからこそ出来る演出などもあり、終盤に限っては最大瞬間風速を感じる場面も見られた。しかしながら、「置きに行った」という印象がとにかく強いのだ。前作『最後のジェダイ』で広がりすぎたストーリーをまとめながら、批判が集まった点をそれとなく鎮火していく。クライマックスに至るまではまとめるための「作業」が進行してしまい、観る側の感情の抑揚が小さい。「作業」であるが故の、微妙なズレも感じられた。登場人物の言動に違和感を覚えたり、伏線の回収が異様に下手だったり、それは最終作であるためのファンサービスがあってのことかもしれないが、そんな「作業」感を感じさせるなら他のシーンを削ってまでしてもっと上手くしてもらいたかった。そんな感情と戦いながらおよそ2時間以上が経過し、いよいよラストシーンに突入する。

 

まとめあげることは、いわば前作の贖罪と捉えればまだ仕方ないと言えるのは理解している。レイア役のキャリー・フィッシャーが亡くなったことで撮影できていないシーンがあることも、コリン・トレヴォロウの監督降板によってJ・J・エイブラムスが復帰するに至ったことも、今後テレビシリーズに注力していくことも知っている。様々な大人の事情を経て引き継ぎをしたJ・J・エイブラムスの苦労も相当なものだっただろう。だが、このラストシーンはどうしたって肯定できなかった。

問いかけに対してある人物が答えを思考する。続三部作のひとつのテーマへの答えを示す大事な部分だ。その人物の背景や舞台を考えてもラストシーンであることは想像でき、「なるほど、こう答えて締めるのだろう」と予測する。だが、その人物が発した言葉は予測とは真逆とも言える答えだった。開いた口が塞がらないとはこういう時に使うのだろうと冷静な自分がいたことに笑ってしまうが、とにかく驚愕と落胆の感情を抱えてあの軽快なテーマでエンドロールに入る。いやいや違うでしょう。何のためのエピソード7,8を経ての本作なのかと。もちろんこの感情は自分の予測が外れたことで生まれたものではない。それを言ってしまったらこれまでの物語を否定することになるだろうという答えを明確に口にされてしまった点にただただ驚き、困惑してしまったのだ。

 

そのセリフを言う必然性はどこかにあったのかもしれない。自分の見落としている要素があっただけなのかもしれない。そう思ってインタビュー記事やレビューサイトを漁るも、目にするのは「賛否両論はあるだろう」というキャストやスタッフ陣の公開前のインタビュー。全てを肯定されるよりは良かったのかもしれないそんなレポートに目を通しながらも、どうにも消化不良だ。確かに自分と同じ意見のレビューもいくつもあり変な安心感を得てしまったが、欲しかったのは安堵ではなく、納得できる理由だ。お前は着眼点が甘いなぁあの展開はこういう経緯があったから必然だしあのセリフはこういう心情を持ってして当然のものだろ、などと目を覚ますような理由付けをしてほしい。

 

鑑賞してから2週間ほど経った今でも合点がいかない。好きな作品を消化しきれないキツさはこれからも他作品で訪れることがあるだろうが、これほどの人気大作がこのような状態なのが何よりもどかしいのだ。あの『スター・ウォーズ』が、あの映画界の皇帝が、これで終わってしまうのか。大作シリーズはいつだって面白くあってほしいというのは我儘だろうか。

私的2019年映画ランキング:ベスト10

2019年も様々な素敵な作品に出会うことができました。洋画ばかりに目がいくこともあって結局のところ劇場鑑賞は週1ペース程度でしたが、観たいと思っていた作品はほぼ鑑賞できたのではないでしょうか。

 

今年は『アベンジャーズ』『スター・ウォーズ』といった大作シリーズの公開があったり、『ジョーカー』や『IT/イット THE END』ではピエロが世間をざわつかせたり。邦画では『宮本から君へ』『蜜蜂と遠雷』などの話題作もあり、『天気の子』『空の青さを知る人よ』『すみっコぐらし』といったアニメ作品もトレンドでした。アニメといえば、ピクサーやディズニーの『トイ・ストーリー4』『アナと雪の女王2』などでは、近年スタジオが意図しているであろう、時代の移り変わりによる価値観の多様性が見られたように思います。

 

そんな注目作の多かった2019年公開の作品の中でも、特に自分が好きな映画10選について、簡単なあらすじもふまえながら残していこうと思います。独断と偏見での選定となりますので、ご容赦下さい。選出に共感してもらえれば嬉しいですし、気になる作品があればぜひ観てみてください!

 

 

 

 

 

 10位『劇場版 幼女戦記

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其れは、幼女の皮をかぶった化物ー。

 

テレビアニメ『幼女戦記』のヒットを受け、続編として展開された『劇場版 幼女戦記』。

テレビシリーズ放送当時はリアルタイムでは観ていなかったのですが、劇場化を受け鑑賞したところ、これがとんでもなかったです。

 

タイトルとキャラクタービジュアルから受けるイメージとはあまりにも対象的な殺伐とした世界観。幼い少女が戦場で無慈悲なまでに人を殺めるそのギャップにより冷たさを感じます。

 

劇場化までこぎつけた凄さを考えると作り手の皆さんに頭が下がるんですが、この作品はとにかく大画面大音響との相性の良さが尋常ではないんですよ。音響へのこだわりが凄まじく、特に戦闘中の射撃や砲弾の轟きが身体にずんずんと響く。まるで自らが戦場にいる兵士だと錯覚してしまうほどにとてつもない臨場感です。

 

そして、主人公ターニャとその敵メアリーのそれぞれの正義のぶつかり合いも見どころのひとつです。この2人のキャラクターって、普通だったら主人公と敵の立場が逆だと思うんですよ。それをあえてこの構図でやろうとする、やれてしまうカルロ・ゼン先生の上手さが際立ちます。

 

さらには声優陣の身を削るかのような迫真の演技にも心が震えました。日常パートから戦闘シーンに至るまで、本当に圧巻です。まだ観ていない人はテレビシリーズから追う価値ありますよ。

総員傾注!

 

 

 

 

 

 9位『THE GUILTY/ギルティ』

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ある事件をきっかけに警察官の一線を退き、緊急通報指令室のオペレーターとして職務を全うする主人公の元に、今まさに誘拐されているという女性からの通報が。

目まぐるしく状況が変わっていく中、電話からの声と音を頼りに誘拐事件を解決することができるのか…そんな緊迫感のあるデンマーク映画です。

 

本作は実験的な映画が数多く集まるサンダンス映画祭にて観客賞を受賞したほか、ポスターの通り北米の大手レビューサイトRotten Tomatoesでも公開当初は満足度100%と驚きの支持率を叩き出すなど、注目を集めました。

 

電話を通して「罪」を探っていけばいくほど、1本の映画として訴えている「罪」が紐解かれていきます。もしかしたら、鑑賞者にも「罪」を感じさせる作品かもしれません。その意味はぜひ実際に作品を観て、確かめてみて下さい。

シャープで繊細さを感じるワンシチュエーションスリラーです。

 

 

 

 

 

 8位『グリーンブック』

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黒人のピアニストと白人の用心棒が人種差別の色濃く残るアメリカ南部を巡るロードムービー。慢性的に蔓延る黒人差別をシリアスに描く一面がありながらも、時にはコミカルな笑いも忘れない、そんな小気味良い作品になっていました。

 

価値観が正反対のふたりが衝突しながらも互いを尊重し仲を深めていく様は、心にほんわかとした暖かさをもたらしてくれます。

 

アカデミー賞作品賞を受賞した本作は、実話を元にしています。だからこそ時代背景や登場人物の心境に馳せる想いが強くなるというか。そんなところもノンフィクションならではの良さだと思ってます。

あと、無性にフライドチキンが食べたくなる。

 

 

 

 

 

 7位『バジュランギおじさんと、小さな迷子』

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インド映画って定期的に話題作が出てくるんですよね。『ダンガル きっと、つよくなる』だったり、『バーフバリ』だったり、『きっと、うまくいく』だったり。

本作もインドでは2015年の公開だったのですが、世界中でヒットを飛ばして今年ついに満を持して日本で封が切られました。

 

おじさんと小さな女の子。2人が同じ方向を見て笑顔を見せるポスターからは既に心温まる雰囲気が漂ってるんですよね…そしてそれを裏切らないのがまた見事。

主人公バジュランギが迷子で口のきけない女の子を家に帰そうと奮闘する物語なのですが、登場人物の誰もが優しさを兼ね備えており、それが冒頭から終盤まで存分に感じられる。

 

宗教を超え、国境を超え、愛のためになんて言ったら小っ恥ずかしいですが、でも確かにバジュランギを動かすものは愛なんですね。ボリウッドらしい演出も含めてとても良い1作でした。

 

 

 

 

  6位『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』

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MCUフェイズ3の最終作品となる本作は『アベンジャーズ:エンドゲーム』の後の物語となります。

トム・ホランド演じるスパイダーマンがあまりにも魅力的であり人一倍感情移入してしまうのですが、ヒーローとしての葛藤や学生らしさ溢れる甘酸っぱい恋模様に終始心を鷲掴みにされます。

 

トビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドが演じてきたこれまでのスパイダーマンを踏襲しつつ、しっかりとMCUスパイダーマンとしての成長物語になっていること。ピーターを支える周囲の人々の魅力もきちんと描いていること。継承としてのヒーロー物語となっていること。重すぎず軽すぎず、スパイディの色を出しながら心に訴えかけてくる1作でした。

 

次回作への期待も膨らむばかりですね。

 

 

 

 

 

 5位『劇場版 響け!ユーフォニアム~誓いのフィナーレ~』 

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全日本吹奏楽コンクールへの出場を果たしてから数か月後、2年生になった黄前久美子の次の曲が始まるのです。

 

響け!ユーフォニアム』シリーズがとにかく好きでたまらないのですが、新作映画ということで冒頭から胸が熱くなるし、2,3年生の成長もひしひしと感じ嬉しいことこの上ないんです。吹奏楽部に入部してくる1年生が抱える様々な感情と、それに向き合う上級生の人間模様には心が震えます。

 

テレビシリーズでじっくりと描いてほしかったというのは欲張りなのかもしれないのですが、そういった感情を抜きに、劇場版としてまた久美子の新たな物語を紡いでくれたことに感謝したいですね。

最後に、京都アニメーションで起こった理不尽で痛ましい事件には憤りを覚え、またこの深い哀しみをどう言葉にすればいいのか未だに分かりません。それでも作品に想いを乗せて命を吹き込まれた方々がいる事実だけは忘れたくないです。円盤が発売された暁には何度だって鑑賞しよう、そんな所存です。

 

 

 

 

 

 4位『ホテル・ムンバイ』

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2008年にインド最大の都市ムンバイで同時多発的に起こったテロ事件を題材とする、実話を元にした作品です。

 

駅や病院、レストランといった人が多く集まる場所で武装したテロ集団が無差別に銃を乱射し多くの人々を巻き込んだこの事件は、死者170名以上、負傷者230名を超える大惨事となりました。この事件をホテルでの出来事にフォーカスして、宿泊客らを無事に逃がそうとするホテルスタッフの勇気ある行動をとことんリアルに追求しながら描き切ります。

 

アンソニー・マラス監督の意図として「国籍も文化も違う人々が団結して最悪な状況を乗り越ようとする事実を映画を通して伝え、後世に残したかった」というのがあったそうです。なるほど、それらも納得の臨場感と丁寧な作りこみでした。

ホテル内の人々もテロリストも描かれ方としてはとても切なく儚いもので、だからこそフォーカスされていた登場人物ひとりひとりの言動が心に沁みます。

 

かなり緊迫したシーンばかりで気を緩められない時間が続きますが、鑑賞後に暗い劇場から陽の当たる外に出た時に、当たり前の日常の平和を噛み締めるみたいな…これまで味わったことのない感覚に陥りまして。自分でも驚いてしまうほど新たな境地でした。

 

 

 

 

 

 3位『スパイダーマン:スパイダーバース』

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スパイダーマンといえばお馴染みとなっているのがピーター・パーカーですが、その彼が亡くなった世界を舞台とし、本作で黒のスーツを身に纏うこととなるのは黒人のスパイダーマン、主人公マイルスです。

 

マイルスがスパイダーマンとしての役割を受け継ぐまでの苦悩と葛藤を描く物語は決して複雑ではありません。王道である面白さ、だからこそすごいと思いました。これってなかなか難しいと思うんですよね。

一歩間違えれば誰もが予想しうる展開と見せ方にしかならず、観客の時間を拘束する映画というコンテンツにおいて飽きを感じさせる致命傷に繋がりかねません。

そうならないラインで細やかなバランスをうまく取りながらキャラクターの成長物語とアニメカルチャーとの親和性を絶妙に描き、成立させているのが見事だなと感嘆した1本でした。

 

さらにアニメーションとしても本作は革新的でした。

アメコミ風の吹き出し演出や色合いとタッチ、固定カメラでのモーション、唐突な画面分割、2Dでありながら配色による微妙なずらし…挙げていけばキリがないほどの技術を投じ続け視覚的に終始面白い作りとなっておりまして。

場面によっては静止画で止めて1枚絵でも表現しきるなんてこともあり、まさにマンガをそのまま映像にしたような映像。疾走感と映像の奥行きを持たせてカットの数々でスパイディアクションとの相性が抜群で前のめりになれる作品でした。

 

スパイダーマンらの画風が異なるにも関わらずひとつの世界にまとめあげ、キャラクターが動いてもしっかりとスクリーンに馴染み、周りのタッチと遜色ない仕上がりとなっているのが見事なんですよ。

声優陣も非常に安定感があり、スパイダーマンを知らなくても十分に楽しめる作品です。

 

 

 

 

 

 2位『運び屋』

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麻薬カルテルからも一目置かれる凄腕の運び屋、その正体は90歳の老人。そんな“実話”を元にしていた本作で監督・主演を務めるのはクリント・イーストウッド

 

イーストウッドの監督作は昨年の『15時17分、パリ行き』以来となりますが、監督と主演の両方を務めるのは『グラン・トリノ』以来実に10年ぶりということで、数多くの実話を元にした作品を手掛けてきた彼の手腕に期待も高まる中で鑑賞しました。

 

公開前の重苦しい予告とは裏腹に、蓋を開けてみれば常時明るい仕上がりで物語は進行します。イーストウッドらしく、差別問題やアメリカンドリームをテーマとしながら、実話ベースという触れ込みから感じる程よい緊張感が作品に深みを与えていました。

 

個人的にイーストウッド作品は相性が良いと自負していますが、巨匠と言われる所以を見せつけられる塩梅に仕上がっています。

 

 

 

 

 

  1位『アベンジャーズ/エンドゲーム』

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いや、何の捻りもないんかい!wってね。しかしながら、ランク付けをするにあたりいくら思考を巡らせても、今年最も心を掴まれたのはどうしたってこの作品だったんですよね。

 

1本の映画として同じランクになるのだろうかとか色々考えたんですが、この『エンドゲーム』はもはやMCU過去作とは切っても切れないわけで。

札束で殴ってくるアクションや映像だけでなく、ヒーローたちの内面を掘り下げたドラマ。特にアイアンマン、キャプテン・アメリカ、ソーのいわゆるBIG3にフォーカスさせながら、脇を固めるヒーローらの迷いや葛藤をもまとめあげアッセンブルさせる技量よ。

 

シリーズの何気ないシーンやセリフに散りばめられた伏線をこれでもかと回収し、およそ10年間積み重ねてきたものの底力を感じる幸福な3時間。決して大袈裟ではなく、こんな映像体験は生きているうちにあと何回できるのだろうかと思わされる作品でした。

 

 

 

以上、個人的2019年映画ランキングベスト10でした。

どの作品をどの位置にしようか迷いましたが、それだけ豊作の年だったのではないかと思います。

 

そして最後に、番外編としてもう1作品だけ。あらすじを見てからの期待感と俳優陣のハマり方、作品として全面に出すわけではないのですがグッとくる熱さが印象的でした。

 

 

 

 

 

 番外編『ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち』

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好きな俳優は誰ですか?

そう聞かれたら僕が真っ先に挙げる俳優が、ジェシー・アイゼンバーグでして。彼は、Facebookを創設したマーク・ザッカーバーグのその立ち上げと発展を描いた『ソーシャル・ネットワーク』で脚光を浴びることとなり、今年は主演作の『ゾンビランド:ダブルタップ』が10年ぶりに続編として公開されました。

 

彼の知的なオーラと代名詞ともいえる早口演技。時には秀才、時にはギャグキャラ、時には童貞を演じる幅の広さ。そのハマり具合。とにかく引き込まれる役柄が多いんですよ。観ているだけで感情を寄せてしまう。そんな彼のらしさ溢れる演技を感じられたのが本作です。

 

株の取引にあたり、ミリ秒(0.001秒)の差で桁違いの損得が出ます。このミリ秒の差を埋めるためにニューヨーク証券取引所の1600km先にあるカンザスのデータセンターを直線距離でケーブルを敷き、最短アクセスを可能にすることで莫大な収益をあげようと計画する男達の姿を描くのが本作です。

 

ケーブルが通る土地を所有する1万件もの物件の買収、山や河の掘削工事、ミリ秒短縮のアルゴリズム開発など困難な問題に立ち向かう主人公たち。無謀ともいえるプロジェクトにどう立ち向かうのか、男達の生き様に注目の作品となっています。

 

主人公ヴィンセントが相手を丸め込む交渉や行く手を阻まれても真っ直ぐ突き進むそんな鬼気迫る演技が抜群に良いんですよ。『ソーシャル・ネットワーク』然り『グランド・イリュージョン』然り、冷静に状況を判断し早口でまくしたて相手に考える間も与えず自分のペースに引き込むキャラクターが本当に良く似合います。好きです。

 

 

 

そんなわけで番外編含めて11作品でした。ちなみに次点で『ジョーカー』『マリッジ・ストーリー』『イエスタデイ』といったところでしょうか。どれも素晴らしい作品だったと思ってます。

来年も既に楽しみな公開予定ラインナップが発表されているので、今から待ち遠しいです。

“MCUのスパイダーマン”の魅力が留まるところを知らない

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©2019 Sony Pictures Digital Productions

 

2019年の映画ベスト10をまとめている最中なのですがその前に、今年最も感情移入してしまったキャラクターについて話をさせてほしい。

 

ピーター・パーカー。後にスパイダーマンとしてヒーローの道を歩む彼がたまらなく好きだと再認識できた2019年だった。

 

スパイダーマンといえば、一般的にはトビー・マグワイア主演の『スパイダーマン』が世間のスパイダーマン像となるのだろうか。いわゆるサム・ライミスパイダーマンと称される『スパイダーマン』はシリーズ3作に渡って制作された後に、アンドリュー・ガーフィールド主演の『アメイジングスパイダーマン』シリーズとしてリブートされ、今ではトム・ホランド演じるスパイダーマンが『アベンジャーズ』の世界線(MCU)に登場する。

トム・ホランドスパイダーマンの登場は単体作品ではなく、『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』だった。MCUにおいて何人かのヒーローは『アベンジャーズ』シリーズに登場した後に単体作品として描かれることがあり、スパイダーマンもその1人である。今年はシリーズ2作目となる『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』が『アベンジャーズ:エンドゲーム』の後の物語を描く1作として公開され、MCUフェイズ3に終止符を打った。

先日円盤も無事発売されたわけだが、スパイダーマンウォルト・ディズニー/マーベル・スタジオとソニー・ピクチャーズとの権利問題で世間を賑わせていたこともあり、それが一旦落ち着いたタイミングだったことも相まって、その喜びはひとしおである。

 

MCUの集大成となった『アベンジャーズ:エンドゲーム』の後、ある出来事に直面し真価が問われるピーターのヒーローとして成長する姿を描いた『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』。トム・ホランド演じるピーター・パーカーに相変わらず必要以上に感情移入をしてしまう自分であったが、2019年を締める前に今一度“MCUスパイダーマン”について見ていきたい。

 

※ネタバレを控えるよう心がけていますが、『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』『スパイダーマン:ホームカミング』『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』『アベンジャーズ:エンドゲーム』の内容に触れる記載もありますので予めご了承下さい

 

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©2019 Sony Pictures Digital Productions

 

先述の通り、スパイダーマンは過去に実写映像を2シリーズ展開し、現在のトム・ホランド主演で3シリーズ目となる。それぞれシリーズごとの特徴があるが、トム・ホランドスパイダーマンはまさに“MCU仕様”だと捉えている。

大前提として、僕はトム・ホランドが演じるピーター・パーカー/スパイダーマンが大好きだ。それは、街中を縦横無尽に飛びまわりアクロバティックな戦闘を繰り広げ、時にはジョークを交えながら愉快に敵を倒していくスパイダーマンのスタイルや辛い曲面にぶつかるシリアスな展開、親愛なる隣人としてのヒーロー像に加えて、何より「幼さや未熟さの残る不完全さ」がたまらなく愛おしいからである。そう、トム・ホランドスパイダーマンは危なっかしさを兼ね備えていることが実に特徴的なのだ。 


まず分かりやすく各シリーズの主演俳優らの年齢について。

2002年公開の『スパイダーマン』では、トビー・マグワイアは27歳。元々童顔ではあったが、シリーズ最終作品では30歳を超えていた。

アメイジングスパイダーマン』が公開された2012年、アンドリュー・ガーフィールドは29歳である。トビー同様に続編公開時には30歳を超える。

対して、トム・ホランドは『スパイダーマン:ホームカミング』公開時の2017年で21歳。MCU初登場の『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』はその1年前の公開だ。更にピーター・パーカーも15歳の設定と、前2シリーズに比べ最も若いスパイダーマンとなっている。およそ7500名の中からオーディションによって新スパイダーマンに抜擢されたトム・ホランドが、若くそして未熟なピーター・パーカーを演じる。

 

撮影時は上記よりも若かったということもあるが、ピーター・パーカーの設定そしてそれを演じる俳優らを比べると、3代目スパイダーマンは若さを全面に押し出している意図が見える。時代の移り変わりもあるだろうが、例えばピーターの叔母のメイの設定を考慮してもそれは明らかである。

 

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©2019 Sony Pictures Digital Productions

 

MCUでのスパイダーマンの初登場は、『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』。当時、公開された予告ではキャプテン・アメリカの盾を奪い、華麗な登場を果たした新生スパイダーマン。全身スーツ姿で戦うヒーローであるため、過去作では戦闘時の感情を声色とセリフ回し、さらには身体全体の動きで表現していたが、突如として現れた彼が纏うスーツは瞼を動かすこともできる新モデルではないか。

これまでのスパイダーマンと大きく異なる点のひとつに彼のスーツが挙げられる。トム・ホランドスパイダーマンのスーツはピーター・パーカーお手製のものではなく、彼を戦いに引き入れたトニー・スタークによって作られている。そしてそれが後の物語に大きく繋がるのだから、マーベルスタジオの懐の深さには頭が上がらない。

 

かつてピーター自ら作ったコスチュームは決してヒーローらしいスタイリッシュなものではなかった。市販のフード付きパーカーにジャージ、黒のゴーグルという格好で自警活動を行う日々。そんな姿に目をつけたトニーがピーターに手を差し伸べた時。初めてスーツを目にしたピーターの驚きと喜びは、まるでサンタからのクリスマスプレゼントを見つけた子供のようだ。そんな感性を等身大で表現するトム・ホランドが愛おしくてたまらない。

 

しかし、周囲からの印象もまた「若さ」だったのだろう。初めての戦いの後、アベンジャーズの次なるミッションにいつ呼ばれても万全だと言わんばかりのピーターの行動と、必要以上に彼の自警活動に深入りせず見守るだけの大人達の温度差に心がチクリとする。

そんな毎日を送る中での物語が『スパイダーマン:ホーム・カミング』で描かれるわけだが、ピーターを見守る大人は何も人間だけではないことに気付く。スパイダースーツに内蔵されたAI「カレン」もまた、ピーターを支える存在だ。スーツの機能についての説明や戦闘時のサポートはもちろん、ピーターの恋愛相談の相手にもなるなど、カレンの役目は様々である。周囲の人々にも正体を明かさず独りで戦うピーターにとって、カレンの存在はどんどん大きくなっていったことだろう。叔母と暮らしているとはいえ、早くに母親を亡くしている(現時点でその描写はないが)ピーターにとっては、一緒にいて居心地の良い相手だったに違いない。

『ホーム・カミング』では認められたい一心のピーターが失態を犯してしまう場面もあるが、実直な精神を失わずにヴィランの悪事に真っ向から立ち向かい大きな成長を遂げる。親愛なる隣人が世界の危機を救う第一歩を踏み出したのだ。

 

アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』、そして『アベンジャーズ:エンドゲーム』では、強敵サノスを前にヒーローも我々も絶望を味わうこととなる。圧倒的な力を持つサノスの前に、心が折れそうになる。しかし、だからこそ、トニーとピーターの間の確かな絆も感じられたはずだ。思えば、かつて父親と距離を置き息子を持たないトニーと父親を早くに亡くしたピーター。この2人がこれほどまでの確かな信頼関係に結ばれることは必然だったのかもしれない。

 

『エンドゲーム』後となる『ファー・フロム・ホーム』の物語では、ピーターのヒーローとしての葛藤と、学生らしい甘酸っぱい恋模様をこれでもかと描き切る。MJを演じるゼンデイヤも前作よりさらにキュートな一面を見せてくれる。ひとつひとつのやりとりに思わず口角が上がってしまうことは必至だ。

 

本作ではヒーローとしても学生としても、トム・ホランドスパイダーマンによる魅力が前作以上に詰まっていたように感じる。真っ直ぐさや若さなどピーターのらしさが物語のエッセンスとなっており、それが恋愛描写からヴィランの登場に至るまであらゆる場面に直結する。これらはトビー・マグワイアアンドリュー・ガーフィールドが演じたスパイダーマンにはない、“MCUスパイダーマン”だからこそのものだろう。

 

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©2019 Sony Pictures Digital Productions

 

トム・ホランドのキュートなルックスと芯の強い真っ直ぐな演技。『ホームカミング』『ファー・フロム・ホーム』とシリーズの監督を務めるジョン・ワッツの巧みさ。メイおばさんをはじめトニーやハッピーらに導かれ、女の子に恋をして、ヒーローとして悪に立ち向かう一方でしっかりと地に足をつけて街の平和を守ることも怠らないピーター・パーカーそしてスパイダーマンの人物像。

これら全てが上手く融合して形成されてきているのが“MCUスパイダーマン”なのではないだろうか。危なっかしさと勇敢さは紙一重とも取れるが、まさにそれをどちらも兼ね備えたピーター・パーカーは我々を魅了して止まない。

 

未熟さを持つが故にその成長を見守りたいと強く願うスパイダーマンにも、新たな試練が待ち受けている。『ファー・フロム・ホーム』のエンドクレジットでは驚きの展開を叩きつけられ、本作は幕を閉じた。次回作ではより多くの脅威と戦っていくこととなりそうだ。そしてその未熟さ故の失敗を繰り返しながらもひとつまたひとつと学び、多くに支えられ、ピーターは自らのヒーロー像を確立していくのだろう。

かつてピーターを認めた男がヒーローとしての第一歩を踏み出した時のように、もしかしたら「僕がスパイダーマンだ。」なんて言葉を言い放ち、次なる敵へと立ち向かっていくことになるかもしれない。

しかしながら、間違いなくMCUスパイダーマンは“親愛なる隣人”から“世界のヒーロー”へと成長していることもまた事実。これまでのスパイダーマン同様、「大いなる力には、大いなる責任が伴う」ことを強く実感するその日が来ることが、今から待ち遠しい。

映画『ジョーカー』の大ヒットにアーサーの笑い声が聞こえる

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すっかり年の瀬だが、2019年の映画界において印象的だった作品を思い返してみると、やはり『ジョーカー』は外せない。楽しいとか面白いとかそういった感情ではなく、とにかく頭の隅に居座られているような感覚。鑑賞後の感情をどこかにぶつけたくて誰もがネット上でレビューを漁ったことだろう。

 

ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本での公開前から海の向こう側では絶賛の嵐。確かに予告動画を見るだけでも昨今のアメコミ映画とは一線を画すその空気が尋常ではない。アメコミ映画といえば『アベンジャーズ:エンドゲーム』が大ヒットしMARVEL映画の勢いが止まらない。一方、直近の数作では『アクアマン』や『シャザム!』などのコミカルな作風も送り出しているDCだったが、本作はここにきてある意味問題作ともいえる作品に仕上がっている。

 

自然と期待値も高まる中で公開が始まった日本では4週連続1位を記録した『ジョーカー』。アメコミ映画における4週連続での1位は、2002年公開の『スパイダーマン』以来17年ぶりのことだそうで、つまりこれは現時点において興行収入世界1位を記録した『アベンジャーズ/エンドゲーム』ですら達成できなかった記録ということにもなる。海外のレビューからヒットの予感はあったが、そんな甘っちょろい目算を笑い飛ばすように『ジョーカー』の評判は口コミを中心に爆発的に伸びていく。

 

至極当然のことではあるが、ここまでのヒットはジョーカーという世界屈指のヴィランに多くの熱狂的なファンがいてこそである。言うまでもなく、原作の人気は絶大なものだ。加えて、『バットマン』、『ダークナイト』、『スーサイド・スクワッド』といった作品においてジョーカーの魅力はより濃く深く世界中に浸透していった。だが、日本の映画市場は海外市場の後を追うことにはならなかった。2008年の『ダークナイト』は多くの映画ファンを魅了し、その年の世界興行収入1位に輝くも、日本では国内興行収入33位とふるわない。

先に挙げた『アベンジャーズ/エンドゲーム』からも海外と日本との温度差が感じられる。公開初週は見事に1位を獲得しメガヒットへの好スタートを見せるも、2週目にその座から引きずり下ろしたのは『名探偵コナン 紺青の拳』だった。さすがコナンいったところではあるが、市場の違いを感じずにはいられない。

 

それでも『ジョーカー』は予想をはるかに超えるヒットを見せた。ここまでの広がりには様々な要因があるだろうが、その中でもかなりのウェイトを占めるのは口コミであり、主に発信元をSNSとした際に、そこにはピエロの姿が見え隠れしている。

 

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インターネットが普及し、世界中に情報を発信することも他人の感想を回収することも容易にできてしまう現代。そしてそれはSNSなどの媒体で意図せず得られてしまうことだってある。例えばTwitterのタイムライン。例えばInstagramのストーリー。例えばYouTubeの動画広告。

インターネットの海をぼんやりと眺めているだけでも、映画がヒットしている数値的情報や周囲の人々のレビューの数々が波となって押し寄せてくる。「興行収入や観客動員数がすごいらしい」「あの著名人が絶賛している映画だとは知っている」などの情報を目にすれば誰だって少なからず興味を持つはずだ。

 

バットマン』を前面に出していないこともヒットの結果に結びついているのではないだろうか。シリーズ物やスピンオフ作品ともなれば過去作をさらうことが億劫となり敬遠する人は多いが、『ジョーカー』は決して「バットマンの敵役の誕生日秘話!」といった打ち出しはしなかった。あの姿と名前を聞けばアメコミファンなら誰もがピンとくるだろうし、そういったターゲットはほっといても劇場に足を運ぶ。そうするとアプローチの対象は劇場鑑賞が年に数回程度の、いわゆるライト層になってくる。だからワーナー・ブラザースは20代〜30代をメインターゲットにして広告展開をしたのだそう。それが功を奏し、話題になった時には既に「CMや周りの人が騒いでいるから頭の片隅にはある『ジョーカー』という存在」が出来上がっている。このスマートな構図は実に現代的だなぁと感嘆するばかりだ。

 

思えば同じアメコミ映画となる『アメイジングスパイダーマン2』のマックスも、承認欲求が認められない日常を過ごす中で事故によりその存在を企業に消されたことがきっかけでヴィランとなった。自分の意志に関係なくエネルギー電気を放つことでスパイダーマンと対峙し、その様子がテレビ中継されたことで自分の存在を世間に知らしめた事実に酔いしれ、姿だけでなく心までもがエレクトロへと変貌していく。

『ジョーカー』ではアーサーが世間に注目されるコメディアンとして拍手を浴びる姿が、彼にとっての喜劇として描かれた。自らが愛するジャンルを生業とし、人々を笑いの渦に包み込む。それが現実となるならば、アーサーはオーディエンスからの多大なる承認を受け取るだろう。

 

情報の交換や収集に限らず、承認欲求を満たすためのツールとしてもSNSの存在は偉大だ。匿名性もあるが故に思ったこと感じたことを自分の言葉で世にぶちまけられるツールは、今や我々の生活の一部となっている。そんなSNS(口コミ)を経て、『ジョーカー』という物語を知るきっかけや理解を深める機会を得ているというのは、アーサーの変貌を考えると何とも皮肉である。同時に昨今のSNSの影響の大きさとピエロの仮面を被って暴れる群衆の姿がどうにもリンクしているように感じ、何とも恐ろしい。

ジョーカーの存在によって社会への不満が爆発し暴徒化したゴッサムシティは、さながら炎上した人や物に対して誹謗中傷を浴びせるネット社会だ。ネット上の不快なコメントや動画がゴミにまみれた街ならば、IDやアイコンが真っ白の肌と大きく裂けた赤い口の役割を果たしている。

 

アーサーに共感できるとは言えないのだが同情の余地はある、そんなシーンが混在する本作は我々にフィクションだという認識を赦さず、心を休ませる隙を与えない作品になっている。

アーサーが職を失ったことやカウンセリングの保障制度を打ち切られたことも、現代社会において起こっている。『ジョーカー』はその舞台をゴッサムシティに置きながら、どこまでも我々の身近なところに存在している。だからこそ鑑賞後にはこれほどまでに恐ろしい感情を覚えるし、それが社会に蔓延するかのような大ヒットを見せた事実からは、どうしたってアーサーの笑い声が聞こえる。

4万5000人の男が東京ドームに集まった日

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UVERworldというバンドに出会って約14年。当初、ファンのほとんどが女性だった彼らが、男性だけで東京ドームを埋める。

当時中学生だった僕は『BLEACH』のアニメとゲームを通して彼らの音楽を知った。多様な音楽要素を取り込んだ独特のサウンドとボーカルTAKUYA∞の歌声がかっこいい、最初はそんな漠然とした想いの中で楽曲に触れていた。当時は学生だったこともあり学校や仲間内では様々なアーティストや楽曲が流行するも、僕はひとりUVERworldの音楽を聴きに戻る。歳を重ねてもそれは変わることがなく、彼らの放つメロディとメッセージは僕を離さなかった。

いつの間にかアラサーに差し掛かる令和元年12月20日。この日東京ドームには4万5000人の男が集まる。

 

 

 成功した途端に手のひらを返す者共に告ぐ 俺達がNo.1

「男祭り」

その名の通り、男性限定ライブ。UVERworldが定期的に行うこの男祭りは、2011年にメンバーの故郷滋賀のライブハウスB-FLATで230人の観客を集めるところから始まった。

翌年には約8倍のキャパシティであるZepp Nambaに挑むも、およそ500枚のチケットを余らせる結果となる。しかし、とんでもない熱量を持ってして成されるライブパフォーマンスが口コミを中心に広がり、2013年に日本武道館、2015年に横浜アリーナ、2017年にはさいたまスーパーアリーナといった大規模な男祭りを敢行。

 

今でこそ多くの男性ファンを獲得する彼らだが、デビュー当時に彼らを支えるファンのほとんどは女性だった。僕がライブに行くようになった頃には既に数千人規模のキャパシティを埋めるバンドになっていたが、ライブ会場は見渡す限り女性ファンばかり。男性ファンを見かけることがあれば嬉しくなってしまうようなレベルで男女比の偏りは明らかだったことをよく覚えている。

 

「自分達の作る音楽は年齢も性別も国籍も関係なく発信している。女性は流行に敏感だからUVERworldを見つけるのが早くて、それなのにネットではアイドルバンドだと言われることもあった。世間からそんな見られ方をされていることが女性ファンに申し訳なく思い、男性にも支持されるアーティストになっていきたいと思った」。そんなメンバーの想いと、表現者としての反骨精神から始まったのが男祭りである。

一方で男女間での性別による考え方や価値観が多様化する現代において、ライブに参加できる人を性別で分けるというのは時代にそぐわないともいえる。男祭りの規模が年々大きくなりその熱気が高まれば高まるほど、女性ファンは忍耐を強いられることになる。メンバー達もそのことを十分に感じており、だからこそ男祭りは時に「呪い」と表現される。前述の通り、彼らの音楽は年齢や性別など関係なく全ての人に届けるために作られる。平等であることはライブにおいてもいえることであり、本来参加の可否を性別で分けたライブはすべきではないということに繋がる。その矛盾を理解した上での男性限定ライブ決行は、野郎だけで東京ドームを埋められるだけの魅力があるバンドだと多くの人に証明するための強い決意の表れだ。

であるならば。それだけの決断をするのならば。その「呪い」からの解放を目撃しないわけにはいかない。そんな大きな期待感とファイナル故にその時を一瞬とて見逃せないという少々の緊張感の中でその日を迎える。

 

 

 好きなようにやれ そして俺に指図をするな

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開場時からドーム内のモニターでは既にカウントダウンが始まっている。18時30分。野太い大歓声の中、ステージ上に表れた彼らは「呪い」にトドメを刺しにかかる。

 

全体を通して、驚くほどいつも通りのパフォーマンスだった印象を受けている。東京ドームでも小さなライブハウスでのライブと同じようなテンションだったのだけれども。それでもここまで辿り着いた感謝をいつも以上に伝えてくれたことが何より印象だ。普段ライブが始まり数曲を歌い終えてからのMCは、盛り上がりを加速させるものだったり、次に歌う曲と繋がりを持たせるものだったりする。しかし、この日は違う。会場を見渡して感謝を述べ、頭を下げる。曲を歌い終わりマイクから離れたところで天を仰いで何度も「ありがとう」と口にする姿は、ライブ前半では初めての姿だった。

TAKUYA∞はしきりに「俺達と一緒に東京ドームに辿り着いてくれてありがとう。俺達を見つけて、共に生きることを選んで、戦うことを選んでくれてありがとう」と言う。とんでもない。こちらこそ人生に大きな影響を与えてくれてありがとう。これに至っては、バンドとファンという関係値以上の、そこに垣根はない感謝を伝え合う関係性もこのバンドの大きな魅力なのだろうと改めて認識させてくれる“対話”の瞬間だっただろう。

 

思えば、UVERworldの音楽を知ってからの最初の数年は歌詞について深く考えて聴いていることもなかった。中学生から高校生、大学生、社会人と年齢を重ねていくうちに様々なことを経験する中で、自分と重ね合わせる歌詞や鼓舞してくれる歌詞と出会って、1曲1曲により強い愛着を持っていった。大袈裟ではなく、自分のことを詩にして作ったのではないかと思ってしまうような楽曲だっていくつもある。「音楽に救われる」ってあるんだなと噛み締めさせられる。

思わず聞き入ってしまうメロディラインや電子音のオシャレさと詩がパズルのピースのようにガチッと当て込まれている、そんな彼らの音楽を創造する巧みさには本当に頭が下がるのだが、それと比例するかのように、時として彼らの歌詞には過剰なまでのまっすぐさや不器用さを感じる。彼らの音楽を通して、人生において大切なものを突き詰めた時に大事なことはそんな泥臭いものなのではないかと、四半世紀とちょっとの年月を生きた程度の自分ですら思わされる。それは自分の少ない経験則としてもそうであるし、何より彼ら自信が体現しているからこそ納得し、感じることだ。あれだけ輝いて見えるバンドですらとんでもない辛い想いもしていたのだろうが、それを全て乗り越えてここに来ているのだ。人生の教訓をアンセムとして言い放つ姿には強い憧れを感じるし、何より自分を奮い立たせる。そんな生き様を音と詩に乗せて等身大に表現し、導いてくれる姿こそがUVERworldの大きな魅力だと思っているし、女性のみならず多くの男性を魅了する理由の1つだろう。

 

そんなUVERworldと個々の日々の対話が少しずつ膨らんでいき、東京ドームという場所で同じ志を持った男Crew全員で肩を組んで合唱する『MONDO PIECE』は過去一の一体感だったのではないかと思う。あれこれと外野からのマイナスの声があったり、デビュー時にバンドメンバーの1人がレーベルから正規メンバーとして認められなかったり、不祥事からバンド活動を休止したりという過程を知るからこそ、自然と涙が流れた。歌詞を自分と重ね合わせることが多いからこそ、UVERworldの1ファンとしての心の底からの感謝だった。

 

 

 その最後まで忘れたくないよ 夢を願う時少し強くなれる僕らの日々

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中学生の時に少ないお小遣いを使って2ndシングル『CHANCE!』のCDを買った。現代のようなSNSを介して好きな物事を共有する時代でもなく、周りの友人とだけ好きな音楽をおすすめし合った。新曲がリリースされる度に唸らされるが、今でもそれは変わらず感服してしまうことは凄みがありすぎる。琴線に触れる程度のものではなく、がっちりと心を鷲掴みにされる感覚。先日リリースされたアルバムも、聴けば聴くほど底なし沼に足を入れているようで、すっかり魅了されている。そんな感覚を何年も覚えさせるだけの創造性が素晴らしい。

 

UVERworldと出会って5年目にして高校の友人らと初めてライブに行き、日々の生活の一部ともなっている音楽を目の前で奏でている姿に感動した。実はこの日ボーカルのTAKUYA∞が喉を潰しており、パフォーマンスとしては十分ではなかったというのが正直なところだった。それから10年近く経った今でも、彼はその時の悔しさを口にすることがある。ただ、当時の僕は100%のパフォーマンスを見られなかった悔しさなどは微塵もなく、彼らを初めて生で見て音の塊を感じられることがただただ嬉しかった。好きであるが故に盲目になっていると言われればそれまでかもしれない。しかし、それほどまでに大きな衝撃と感動を受けたことはどうしようもない事実である。

 

2010年に行われた初の東京ドーム公演では、野球観戦でしか訪れたことのないその場所を音楽で繋ぎ合わせるインパクトに圧倒された。今その時を振り返った時に彼らは「ライブに精一杯で皆に感謝の気持ちを伝えないままステージを降りてしまった。」と後悔の念を吐露する。こちらとしてはそんなことは微塵も気にしないままその日を終えた記憶であったが、メンバーのそんな想いを考えると、男女関係なく支持される唯一無二のアーティストという立ち位置に共に辿り着いた一体感を感じずにはいられない。

 

自分の半生にUVERworldという存在がある中で、ここまで導いてくれたことには感謝しかない。そしてこれからも僕は彼らの音楽に救われることでしょう。本当にありがとうございました。

 

新しい時代に足跡つけた、彼らがUVERworld

これからもよろしくお願いします。

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